遠雷 夜話

  積み上げた札の重なり気後れしながら、イルカは目を 伏せた。
それは、今にも音を立てて崩れそうなほど嵩張って見 える理由が、この場に相応しくないシワの多い使い込ま れた小額の紙幣ばかりである為だ。
 コツコツと貯めた金で妓を買いに来たことが、計算高そうな見世の遣手には一目瞭然だろう。
 遣手はイルカに対し、つま先から頭までジロジロと遠 慮ない視線を投げかけたあげく、一見の客は先払いがき まりだと言った。
 言い渡されたのは、食事から酒の用意まで、交渉とも いえない遣手女の一方的な金額だった。  

 場慣れしていない野暮な自分が値踏みされているよう で、帰りたい気持ちがこみ 上げて来る。 ―――がまんしろ、こんなところで逃げ出してどうする。
 張り見世の格子の隙間から彼女に視線を合わせたとき、 その気の強そうな美しい瞳がゆっくりと閉じられた。そ れは惚けているイルカに対し、頷いたのかもしれない、 ただの遅い瞬きたっだかもしれない。
 イルカは矢も楯もたまらずその見世に飛込み、
「 あの人をお願いします」
と、どもりながら叫んだ自分を思い出した。
 一旦客と認めた遣り手が恭しく盆に載せ、見世の奥へ 下げさせた金はイルカが下忍から中忍になり数年、遊ぶ ことも覚えず、地道に貯めたものだった。
 自身の為に使うとはいえ、後ろめたい気分になる。
 それは、幼い頃より母に散々聞かされ、身に沁みてい る教えのせいであると分かっている。
 男の衝動は、女にとっては時には暴力だと、常々母は 言っていた。任務で不在がちの父に成り代わり、若い母は息子にまっすぐな道を歩かせようと躍起になっていた ように思う。また、くの一だった母が、自分の辛い過去 と決別するために、イルカに理想とする男性像を説いて 聞かせたのかもしれない。
 大好きな母の言葉を守れば、父のように思いやりある 真に強い忍になれると信じていた。
 体を合わせる事は、互いが特別な相手になるの待って、 必ず女性の了解を得てから成すべきこと、強く優しい男 はこうあるべきなのだと、小さな隠れ里の中で育つ幼い 子供には、まるで掟のような母のいいつけだった。

(中略)

 見世に用意された部屋へ辿りつくと、そこには彼女が 待っていた。
「ようこそお いでくださいました」
 ほっそりとした白い首すじが優雅に弧を描いてイルカ に向 かって下げられている。
 行灯に頼った薄暗い部屋の中、銀の髪よりもなお、白 く輝く肌がイルカの目に焼きついた。
「さあ、こちらへ」
『かのこ』と名乗る遊女は切れ長の目を細めると、美し い所作で立ちすくむイルカを部屋の奥へと導いて行った。
 かのこの部屋に通されてから酒と肴の用意が全て整う までのほんの少しの間、イルカは普通に息が出来た。
 先ほどまでのイルカといえば、色町を端から歩いては、 のれんの色が気に入らないからこの見世は嫌だなどと難 癖をつけ、体よく己自身に断る理由をみつけていた。
 その間に辺りは宵の闇が広がるばかりで、ふとここへ 来た目的を思い出せば、あせりと情けなさに動悸が早ま り余計どうしていいか分からない自分が居た。
 今更であるのに、誰でもいいとは到底思えない。
 往生際の悪いことだと我ながらに思う。しかし止めて 帰ることもできない。  仕方なく町の途切れるところから、もと来た道を戻る。 いっそ木ノ葉から離れた別の町だったらと決断力の鈍っ た頭で考えていた。
 先ほどは格子の奥に座る遊女達を見ることさえしなか った赤い壁と派手な明かりの漏れる見世の前で、イルカ はふと呼ばれた気がして頭を上げた。
 その時、こちらを見ている少女とも成熟した女性ともどちらともいえないような美しい目元をした遊女と目が 合った。
 それが今イルカがひざを突き合わせているかのことい う娼妓だった。