遠く続く道
南に面した窓から広がる空が見える。
高い位置にある雲が西から赤く照らされているのは、この時間が秋のよく晴れた夕暮れだということを知らせていた。部屋の扉の向 こうから、騒がしく人の歩く音と、硬質な物が触れ合って立てる耳障りな音が聞こえる。
ぼんやりと視線を天井へ戻し、腹が減っている時ような不快感を覚えた。
―――ここはどこだろう。
体が重くて、あちこち痛いのは風邪を引いて熱がある時に似ていた。
まただ…と思った。見ると手には針が刺さり透明な管の先に液体の入った袋が2つぶら下げられている。軽く小さな音がして、この部屋のドアノブが回ったのが分かった。入ってきた生温かい食べ物の匂いが、ちっともそそるものでないことにうんざりする。
近寄るなりこちらを驚くように覗き込む白衣の人物に、かすれた声で聞いた。
「…もう、ごはん?」
木ノ葉病院のベッドで横たわる男が、ここに運び込まれたのは2日前のことだった。
部屋に入ってきた二人の内で、年嵩の人物が男の脈を取りながら静かに声をかけた。
「うみのさん、ご気分はどうですか?まる2日眠られていたんですよ」
「……………」
「うみのさん?私の声が聞こえますか?」
「…うみ…の…ってダレ?」
暫し逡巡した後、医師は看護師に耳打ちをし、彼女が病室を慌ただしく出て行った後、再びベッドで眉を顰める男に声をかけた。
「どこか、痛いところはありませんか?」
「針のトコロが痛い…」
点滴の針を簡単に確認した後、木ノ葉を支える医療忍者である医師が聞いた。
「…お名前と登録番号をを仰って下さい」
「…トキ、登録番号は305…」
言いかけた言葉を止めたのは、扉から騒々しい音を立てて転がるように入ってきた背の高い男のせいだった。
「…イルカ…」
「はたけ上忍、面会謝絶の札が見えませんでしたか?」
言葉を発した医師と同様に、闖入者を凝視した。
「っあなたが、病院に運び込まれたと、受付で聞いたからっ、でっ …」
今しがた遠方の任務から何日ぶりかに帰って来たとどもりつつ、 自分の埃っぽい体を見回して男は困ったように頭を掻いた。
「ごめんね、おとといの夜には帰ってるハズだったのに」
息を既に整えたはたけカカシはそう言うと、横たわったままの男の体に手が届くほど近くまで寄った。
「はたけ上忍、今日はこれでお引取り願えませんか?」
「…この人とはごく親しい間柄です、家族とみなして頂けると有難 いのですが」
先程の砕けた様子と違い、医師に向けた表情は有無を言わせないような真剣なものだった。
「…そうですか、では綱手様がいらっしゃるまで外でお待ち頂きます。でもその前に病院ではそういった様子で来られると大変困るのですが…」
「も、申し訳アリマセン、すぐ綺麗にしてきます!急いで戻りますから、イルカ先生」
顔を赤くしながら立ち去ろうとするカカシに対し、横たわったままの男は、なんとも不可解な表情を見せた。
「アンタ…、だれ?」
久しく聞いたその声の中に、カカシには理解しがたい信じられない言葉が含まれている。とまどいとあせりの内に、そう告げた鼻梁 をまたぐ一文字の傷のある男の顔を、カカシはじっと見つめた。
―――お前の名前、もう一度いってごらん?
目の前の人物はよく知っている。何度も会ったことがあり、しかもその時自分の名を呼んだではないか。
「トキだよ…、忘れたの?」
場所は違っていても、この人に会うのはいつも壁で囲まれた気の遠くなるような白い世界だった。
「綱手せんせい、僕は覚えてるのに…、背中に痛い注射したの、ついこないだだったよ!」
綱手と呼ばれた人物は扉の外を気にするようにした後、目の前の男に視線を戻すと躊躇いがちに言葉を続けた。
「トキと呼ばれたのは、お前が小さい頃の時分だけだ。今は別の名前で暮らしている」
「………せんせい?」
「…立てるか?出来るならベッドから降りて立ってみろ」
動くたびに、腕に刺された点滴の針に顔をしかめながら、言われた通りに裸足のまま床に降り立ってみた。驚くことに、仰ぎ見上げていたはずの綱手は、自分の目線から随分下ったところに居る。
「…せんせい、あれ?どうしてそんなに小さくな…」
縋るように綱手を見詰めると、返されたのは強い視線と振り払いたくなるような言葉だった。
「分かるな…イルカ、お前は誰でもない、うみのイルカだ!」
『うみのイルカ…』
その名を聞いた途端、突然水の中にいるように足元が覚束無くなり、目に映る景色がぐるぐると回り始めた。目の前にいる綱手のかける声さえもよく聞き取れない、倒れるようにベッドにしがみつく
と、視線の端に先程の背の高い珍しい銀の髪色を持つ男が入った。
―――さっき綱手先生に外に押し出されたのに、また戻ってきたんだ…。 遠慮なく伸びてくる男の薄い手のひらに身が竦む。ああこれはよくない事だと感じる。知らない人間に自由にされることは、何一ついい結果をもたらさないだろう。留まることのない浮遊感に、もう
目を開けていることさえ出来ない。
―――トキでいることが間違っているというのなら、僕がとるべき道は決まっている…。
〜記憶をなくしたイルカとカカシのお話です。
ネタバレを含むアナザーストーリーです。〜