夏の夜の夢12



木ノ葉に比べれば随分涼しいはずの異国の夜であるのに、イルカはじっとしているにもかかわらず、背中にじわりと湧く冷たい汗の感触にうんざりしていた。
 夏の里に入ってから長時間、催淫作用のある香にさらされ、何度かの食事で口からも怪しげなものを摂った身だ。饗された口当たりのいい酒の中にも入っていたことだろう。
 客として招待されたイルカ達は、それを知りながら避けるわけにはいかなかった。カカシに指摘されなくても夕べ辺りから頭が妙にぼんやりしているのは気づいていた。
 不快さはないが、まともな思考力を奪われてしまったように思う。どれほどカカシから叱責を受けても、反省どころか自分は本物が目の前に居ることに喜びを感じてしまっていた。美野屋で障子越しに対峙したのはカカシの影分身だったのだ。
 イルカは元々こういう類の薬物に過剰な反応が起こらない体質だったが、今日の自分はやはり多少なりともおかしなことになっている。忍である自分達は特別に効果の高い薬草を使われたのかもしれない。またイルカ達の知らない製法で調合したものもあったかもしれない。結局そのせいで任務を放棄したと言える。
 最初に部屋を訪れたのが生徒と変わらない背格好の少女だった。彼女は山里のしきたりを盲信している。迷いのない生活が出来るのは幸せな事と言えたが、それでもやはりイルカは彼女のような娘を不憫に思った。
 大広間で女達と形ばかりのお見合いをした時、熱心に相手を見極めようとしている少女がいた。イルカは深く考えもせず、少女から受け取った杯を自室の前に置いた。果たして少女はやってきた。
 この任務に出る前に火影である綱手がイルカに言ったことがある。大義としては夏の里と信頼関係を結ぶ為の簡単な任務であるが、思うところがあればイルカの好きなようにいいと言った。綱手や木ノ葉の里の物差しがいつでも正しいという保証はない、イルカのような人間の物の捉え方もそれらの狂いを見定める上でたまには必要なのだ。そう言った。
 だからイルカは最後には任務を放棄した。綱手の言葉がなければ、そうしなかったかもしれない。あるいは来たのが少女ではなく、慣れた女ならイルカはその人を抱いたかもしれない。運がよかったのか悪かったのか、今晩イルカの前に最初に現れたのは、十代半ばを過ぎたくらいの少女だったのだ。
 少女が何を考え思っているのかまず知ろうと思った。ほのかに想う幼なじみがいるということまで聞き出す頃には、前夜からの緊張と疲労のせいで少女は座りながら舟をこいでいた。出来る事なら祭りに参加したくなかったとも言った。生まれた里のしきたりに縛られず、他の生き方もあるかもはずだ。それをよその土地の人間が教えていいものやら、イルカはまず身近で信頼できる大人に相談してみてはどうかと言った。里を変えることも夢ではないかもしれない。少女は人心地がついたのか眠ってしまった。
 布団を明け渡し、手酌で酒を飲みながら見守っている内に、あどけないはずの寝顔にふいに女を感じた。温められた布団から立ち上ってくるのは、まぎれもなく女の肌の匂いだった。それをイルカの鼻は敏感に嗅ぎ取った。自分自身に裏切られた気がした。
 とうとうイルカは堪えきれなくなり、影分身を置いて部屋を抜け、考えがまとまらないままカカシの元へ向かった。そして当たり前のように門前払いされてここへ逃げてきたのだ。
 囲炉裏の火を見詰めていると、だんだん気持ちも落ち着いてくる。イルカは眠りに落ちる寸前ふと覚醒した。扉の外に何者か人の気配がある。
 相手はいつからそこに居たのだろう、イルカは気づかなかった。ただその人物は立っているだけで、一向に扉を叩く気配がない。
 イルカは自分が木ノ葉の上忍だった男の家にいることで、心に隙ができ気配を消す事を失念していた。カカシが先ほど指摘したように、ひょっとしたら相手が強引に扉を破る場合の事もあるかもしれない。まったくの油断だった。とにかく扉の向こうに立つ者が何ものか、先手を打ったほうがいいか、やり過ごした方がいい相手なのか見極めなければならない。
 ここは忍であるツルギの家だ。咄嗟に思案して視線をアチコチに動かした。天井板のない小屋は剥き出しの梁が何本も見えていた。イルカはそこへ上がると、表に面した壁に設けられた小さな狐格子に身を寄せた。格子にはめ込まれた板にふれると、案の定目星をつけた一枚が僅かに動いた。音を立てないようにして小さな板をずらし、戸口の辺りを見る為にイルカはそっと顔を近づけた。
 締め切った室内に、その隙間から冷たい夜の風が吹いてくる。目を凝らしてみるが、星明りの下、戸の前に居るはずの影はどこにもない。もっと広い範囲を見ようと身を乗り出したとき、イルカが覗き込もうとした隙間の向こう側に、生きている人の目玉があった。
「ぅぁッ…!」
 イルカは驚いて梁の上から転がり落ちた。なんとか足から着地して受身を取ったが、身体のどこかを打ったらしい。痛みと驚きで無様にも膝が震えたが、すぐに扉へ向かった。
 今しがたイルカが見た目玉が誰のものなのかすぐ分かった。睫毛の生え具合や長さ、瞳の色、いつも見ていたからその持ち主が誰なのかイルカはよく知っていた。
 重くて硬い心張り棒を外し、イルカは扉を開けた。
「カカシさん」
 そこには不機嫌な気配を隠さず、夜の空気で湿った銀の髪を重そうに垂らしたカカシが立っていた。
 戻ってきたカカシの姿に少しでも喜んだそぶりを見せてしまったのがいけなかったとイルカは遅まきながら思った。自分が任務を抜け出したことを忘れてはいけない。
 いつまでも戸口に立ったまま入ってこないカカシをいぶかり、イルカは一歩近づいた。
「どうかされたんですか?」
 カカシの方へ腕を伸ばしたと同時に、イルカは逆に相手から肩の付け根辺りを突かれた。さほど強い力でなかったにもかかわらず、イルカは後ろ側へよろめき、土間に尻餅をついてしまった。
 見上げればカカシが戸を閉めたところだった。その人の縫い止める様な視線を感じ、イルカは立ち上がることを忘れた。
「言ったよね」
 抑揚の無いその声に、イルカは胃の奥が縮んだ。カカシの足がイルカに向かって歩みを進める。
「誰が来ようが決して戸を開けるなと」
 大きく見開いたイルカの瞳に、すぐそこまで来たカカシの姿が映し出される。静かな振る舞いであるにもかかわらず、イルカは身を竦ませた。
「カカシさん」
 微かに震える声で名を呼ばれると、カカシはすっと腰を落とし両手でイルカの肩を掴んだ。その柔らかな触れ方にイルカはほっとため息を吐いた。
 カカシが持ち上げるようにしてイルカを立たせた。礼を告げようとすると、両肩を掴んでいたその手がイルカの肘の辺りまで下がったところで止まった。
 スンとカカシが鼻を鳴らした。
 カカシのおかしな様子が気になりイルカは亀のように首を屈め、豊かな銀の髪に隠れているその顔を覗き込んだ。
 ギラリと光る濃紺の瞳がイルカを見詰め返す。本能的に逃げようとカカシの身体を手で押し返すが、びくともしなかった。
 イルカは逆に肘を押さえ込まれた。前から押されるまま後ろに下がり続けた両足の踵は、上がり口の冷たい敷石に触れた。無理に動けば無様にも後ろにひっくり返ってしまうかもしれない。
 倒れないように前に重心を掛けるほど、カカシが身体を押してくる。ついには腰から下がぴったりと合わさった状態になった。イルカは出来るだけ上体を逸らし、身体を離そうとした。
「カ、カカシさん」
「アナタが悪いんですよ」
「どうしたっていうんですか…?」
「俺の言いつけを守りもしないで」
 カカシは怒りを滲ませた視線を投げ掛けてくるが、イルカの目には彼の顔が嬉しそうにも悲しそうにも、酷く苦しそうに見えた。支給服越しにカカシの熱がイルカに伝わってくる。鼓動まで聞こえる気がした。
「アナタのせいだ」
 カカシの口布の下から歯を噛み締める音が漏れた。
 イルカははっとした。カカシも皆と同じように美野屋で香を嗅ぎ飲み食いしたのだ。カカシの動きは止まったが、イルカの両腕を掴む力は一向に緩む気配がない。そして浅い呼吸を繰り返していた。カカシが美野屋を抜け出してきた理由がイルカと同じなら、こうして望まない人間を腕に抱える事自体不服だろう。
 だとしても。
 イルカは目を閉じ、向かい合わせに立つカカシの左肩に自分の頬をもたれかけさせるようにして寄せた。
 その頭上からは「ああ」と小さな声が聞こえた。
 このような男の身で、他の誰でもないカカシを慰められるのならそれでいいと思った。
 やがて力強いカカシの腕に巻かれ、イルカはその胸が広いことをはじめて知った。
 カカシの息遣いがかつてないほど近くに聞こえる。イルカは目蓋を閉じた。
「アンタは俺のものだ」
 カカシの声が何度もその言葉をイルカの耳に落す。
 夏の夜が二人の間を埋めようとしていた。
      

                      〈了〉

 

お付き合い有難うございました。
オフの方はオマケでもう少し後の話がついています。
(2012.08.08)




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