うまやか事(後編)


 

 静かに、だが音を消さないように歩むのがここの決まりだ。耳が廊下を進む人の足音を捉えてから、目の前の襖が開くまでの時間が、とてつもなく長く感じた。けっして他人と間違うことのないイルカの気配に、カカシの鼓動が早くなる。
 火ノ寺の一室通されたカカシは置物のように座っていた。里を出る時無理矢理持たされた火影の笠を目深に被り、部屋のすみに控えている若い忍僧とは目も合わさずに、ただじっとしていた。同じように供につけられることになった暗部二人については始め頑として受け付けなかったが、譲歩する代わりに火ノ寺の山門の前までにさせた。いざイルカと向き合おうとすると、邪魔ばかり入る。

(冗談じゃないよ……)

 イルカに会うのに、前の晩は一言うべき事を山のように考えて一睡も出来なかった。しかし、この段になると、我慢が出来ない程、ただ彼の顔が見たかった。
 顔さえ合わせる事ができたら、何とかなるかもしれない。どうかすると悲観的な思いに陥りがちなカカシでも、今日ばかりは前向きな考えが浮かぶ。だが本当は二人の関係の壊滅的な状況をよく分かっていて、恐ろしくて正常な思考に辿り着けないのかもしれないとも思った。

(イルカ先生に何を言われようと……)

 六代目火影となり、寝る間を惜しんで働いて来たことは事実だ。しかしその間、イルカとの関係をよりよいものにする為にした事など一つも思い出せない。カカシの中にあるのは、破綻するように努力した記憶だけだ。側にいて欲しい、自分から離れないで欲しい、それを願って口にするだけの資格はもうない。イルカからの拒絶を怖れて逃げ回り、それでも自分から手放す事も出来ず、今日の今日まで彼の隣を明け渡さなかった。そんな己の呪いたくなるような狡さを悔いながら、カカシはどんな事も耐えるつもりでここへ来たのだった。
 廊下から入って来て、隣の控えの間の畳を踏む音が止んだ。

「うみのイルカ、参りました」
「はい」

 カカシが到着してからここまで取り次ぎをしてくれた忍僧が返事をして、すっと襖を開いた。膝を突いたイルカが敷居の前で一礼したあと、応対した忍僧に小声で呼び掛けた。

「大山さん、門主さまが経蔵の虫干しの件でお呼びです」
「わかりました、それでは後の事はイルカさんにお任せします。向かいの間に、控の者がおりますから、何かありましたらそちらに」

 大山と呼ばれた忍僧は、カカシに暇を告げ、同じ色の作務衣を着たイルカが低い姿勢のまま、部屋の中に入って来た。イルカが再び手をついてカカシに頭を下げた。

「火影様、ご無沙汰しております」

 カカシは脱ぐはずだった笠を頭乗せたまま、目だけを動かした。情けない事に彼の姿を目にして初対面の時より強い緊張に襲われた。ガチガチに固まったまま動けずにいると、イルカは火の文字の入った笠を被った里長を前に、当然のように深くお辞儀をした。ぱっと上げた顔は、嘘のように明るい表情だった。

「……っ……」

 カカシの焦がれていた深い水を湛えたような色をしたイルカの黒い瞳がこちらを向いている。それだけで、さっきまで五月蝿い程頭の中で繰り返したあいさつの文句さえも忘れてしまった。

「今日は、何か御用の件でおいでになったんでしょうか」

 責める響きも無く、イルカの優しいいつもの声だ。

「いえ…、イルカさんがいるので、挨拶がてら寄らせてもらいました……」

 イルカが嬉しさを隠せないように微笑むのを見て、カカシは思わず息を飲んだ。散々な目に合わせた相手に対し、イルカはどうしてそんな顔が出来るのだろうと思った。

「ありがとうございます、六代目」

 最後の呼び掛けに、カカシの中に湧いた淡い期待が萎むのを感じた。次に交わす言葉を必死の思いで探しながら、カカシは暫くの間イルカと見詰め合っていた。イルカは穏やかな笑みを崩さない、見詰め合っていると思っているのはカカシだけかもしれないと思った。
 少し痩せたようだが、思っていたより元気そうに見える。先ほど出て行った忍僧にうみのイルカはどうですかと、さも里長らしい気配りで出た質問をした。

 『若い者達のお手本となって働いて下さっています』

 にこやかに返された言葉に、カカシは安堵して頭を下げた。
 紅の家でイルカの行方を聞いた後、執務室へ取って返し、心臓が止まる思いで休職者のリストを調べた。そこにあったのは、僅か一月の期限での休暇届けであった。カカシに見覚えは無かったが、イルカほどの経歴の持ち主ならば、上層部の数名の判断で許可が下りる。一月、それならば現段階で数年に及ぶ火ノ寺の過酷な行に臨む訳ではないと、カカシはそれだけに関しては胸をなで下ろしたのだった。しかし、時代が変るにつれ、忍を早くに辞退し第二の人生を歩む者も出て来た。イルカがそうでないと言いきれない。現にカカシはイルカの口から今回の事を一言も聞いていなかったのだ。あれほど律儀な人が、カカシに黙って里を留守にする理由がどこにある。
 親友が乗り移ったかのような紅のおせっかいは、二度とはないだろう。どんな奇跡が起こっても、イルカとの間に出来たこの数年の溝は埋められはしない。だが、今何かをせねば、カカシは再びとりかえしのつかない後悔をして過ごすことになる、そんな予感があった。

「火影様、……六代目、大丈夫ですか」

 イルカに呼び掛けられて、カカシは目を瞬かせた。もう、彼に名前で呼んでもらう事もないのかもしれない。

「もしかして、お疲れなんじゃありませんか」

 心配そうなイルカの声に、カカシは観念したように一つ頷いた。

「ええ、確かに疲れているかもしれません。こうなってみると、三代目はあのお年で、よくやっていらっしゃったと思いますよ」

 三代目をヒルゼンとその名で呼ぶのは、彼とスリーマンセルを組んだ者か、その教え子くらいの、ごく限られた親しい人間にだけだった。カカシも、一番に呼んで欲しいその人に名前を呼ばれない。自ら招いた事で、それくらい二人の距離は離れてしまった。だが、せめて火影としてイルカを、彼をあるべき場所へ戻したい。

「俺だけじゃなくて、同じように執行部の連中はいつも仕事に追われています。ま、他も似たり寄ったりかな。いつも時代も木ノ葉は人出不足で……」

 幾度となくイルカと話して来た事だ。過去の大戦で、一定の世代の命がごっそり奪われる事を繰り返して来た。結果、残された人間が仕事を二重にも三重にも割り振られ抱え込む。木ノ葉の忍の寿命計算などするだけ無駄だった。

「火影様……」
「それでね、どこもイルカさんがいなくて困ってると、アカデミーの方からも、養護施設のカブトの方からも、ほら、内だけじゃなくて外務部の方でも、あなたがいつ戻るのか、せっつかれて困っていますよ」

 イルカが相談役として名を連ねている部署は沢山ある。カカシが火影となり、イルカが執務室で補佐の仕事に本腰を入れる為教師の座を退くに当たって、各方面から声がかかった。人柄に加え、三代目の代から火影について、いろいろな経験を積んだ人である。教え子の多くが木ノ葉の戦力として活躍しており、顔が広く、内外での交渉事や、また対人問題で窮した時、誰しもがまず浮かべるのはこの人だ。

「も、申し訳ございません、里を出る前には一通りの問題を片付けて来たはずですが」

 わざと軽口を叩くように言ったカカシに対し、イルカは苦笑しながら答えた。

「未だにそういう甘えた事を言うのは、教え子のうちの誰かですね。困ったなぁ。でも、そう言って貰える内が華かもしれませんね」

 どこか寂しそうに見える笑顔に、そんな顔をさせるのも、イルカがここにいる原因を作ったのも自分である事を、カカシは今更のように思った。困らせに来たのではない。ぐっと腹に力を入れ、イルカの目をひたと見詰めた。

「俺と帰りませんか」
「え、それは、どういう……」

 イルカが戸惑うように聞いて来た。カカシは首を振った。
「里で何か問題が起きているという訳ではありません。アナタは何も俺に告げずに行きましたね。それがどういう意味か分かってますか」

 先ほどまで嬉しげにカカシを見詰めていたイルカが、座ったまま何かに縋るように自分の左腕を抑えた。

「カカシさん……」
「俺がアナタがくれたチャンスを無にした事はあやまります」

 イルカが廊下を行き交う足音を気にするように、後ろを振り向き、困ったように首を振った。どこに耳目があるか分からない場所で、火影である自身のプライベートな事を口にするのはよくないと言っているのだ。

「今はこれ以上言いません。イルカさん、里へ帰りましょう」
「……ません」

 被さるように発せられた言葉はよく聞きとれなかった。

「イルカ」
「出来ません」

 小さくだが、はっきりとした声だった。イルカからの答えは予想していた通りのものだが、見返される彼の目が今更だと訴えているようで、カカシは下を向いた。

「……ここで押し問答する気はありません」
「カカシさん……」

 ひょっとすれば、こうして名前を呼んで貰えるのはこの先二度とないことなのかもしれない。

「分かっています、すぐに戻れというのは無理な話でしょう」

 ただの物見遊山ではない、イルカといえど忍として長年過ごした者が、火ノ寺の門戸を叩く事と言う事は、簡単な話ではないのだ。それだけに、イルカの覚悟が伺える。そうでなければ火ノ寺からの許しも得られなかっただろう。

「でも、その気があるなら、ここを離れるのに三日もあれば充分でしょう」

「わ、私は無理を通すつもりはありません。ですが、出来る事ならば猶予を頂けないでしょうか、せめてあと……」

 紅の家でイルカのために開かれた壮行会は、彼の不在の穴を埋める支援者の顔合わせのようなものだったらしい。律儀にそれだけの根回しをしてやっとイルカは里から出たのだ。

「構いませんよ」
 カカシは音も無く立ち上がった。笠の影となって、イルカからはほとんど顔が見えていないはずだった。

「ただし、三日の内に戻らないのなら……、俺とは終わりだと思って下さい」

 驚きと困惑の色を浮かべたイルカが、言葉を探している姿を見るのはしのびなかった。目を背ける前に、短く刈り込まれた彼の黒髪に、僅かながら白いものが混じっているのに、カカシは今更のように気付いた。

「……髪だって何だって、アナタの好きにしたらいい。俺の許可なんて、アナタにはもう意味の無い事だと分かりました」
「こ、これは、水を節約する為に……!」

 イルカが短くなった自分の髪に、乱暴に手をやる。

「分かってますよ」

 元の状態が思い出せない程違う。イルカのすべて、髪の先までもがカカシのものだった。無限だと思っていたイルカとの愛に彩られた時間。あれは夢だったのだろうか。未練だと思った。

「勘違いしないで下さいね。今のは、はたけカカシの言葉ですから……」

 カカシは目を細めて微笑んだ。

「火影として、アナタには感謝の言葉しかありません。イルカさんは実によくやってくれています。一月後、里の者同様、木ノ葉であなたの帰りを待っています」 

 カカシは何かを告げようとするイルカの横をすり抜け、部屋を後にした。さよならを言う資格は自分に無い事を分かっていた。
 

* *


 その日の内に終わりを告げずに里へ戻った事を、カカシは酷く後悔した。イルカに突きつけた三日という期限は、所詮自分の為だったという事に気付くまで、失われるものに対する苦しみに悶え続けた。一日で、周りの者が気付く程カカシは憔悴した。三日目が来ても、イルカが戻らない事は分かっていた。だが、微かな希望が打ち砕かれる瞬間を怖れる心が、自分の中でまるで生き物のように、息も絶え絶えに暴れているのだ。

「六代目、昨夜はどちらでお休みになったんですか」
「ちゃんと夜はお休みになられてますか」

 執務室付きの若い中忍達が口々にそう言った。カカシは用意された火影屋敷にとどまる事を嫌い、上忍の頃から変らず所有する住居に帰る事が多かった。独り者であるゆえに、夜の過ごし方など、そこまでプライベートな事は明かさないようにしてきた。昔からカカシを知る火影の護衛を勤める暗部数人か、ガイなどの側近に滞在場所を秘かに知らせるに留めていた。火ノ寺から戻り、カカシは主不在のイルカの家で寝起きをしていた。それ以外の場所では、微睡む事さえ出来ない気がしていた。だが、カカシの安眠を約束してくれたイルカのベッドに体を横たえると、音も無く果てしも無い暗い水底に沈んで行くような寂しさに襲われた。

(三日、三日だけ)

 傷も無いのに酷く痛みを感じる胸に手を当てた。生きたまま体の一部をむしりとられるとしたら、こんな気持ちなのかもしれない。逆の立場だ。自分はずっとカカシの訪れを待っていたイルカに、こんな痛みを与えていたのだ。

(ごめんね……)


 どんなに進みが遅く感じられようと、三日が過ぎた。過ぎてみると、たった三日の事だった。カカシが火影として過ごして来た期間はその千倍以上だ。その間、イルカはたまにしか現れないカカシをどんな思いで待っていたのだろうか。三日で戻れとは、カカシに見切りをつけさせる方便だったとしても、とても見合う話しじゃない。
 だけれどきっと、イルカはカカシというお荷物から解放されて、せいせいしているはずだ。イルカを自由にする事がカカシがしてやれる最大の贈り物なのだ。それ以上に意味のあるものを彼に返して上げられなかった事が、心の底から申し訳なかった。
 三日が過ぎ、カカシは日を数えるのをやめた。もう二人の距離はそんな期限を切る前から離れていたのだと気付いて、少しほっとした。
 イルカを知る前の元の自分を思い出せないが、抜け殻に戻った気がした。後は生きる本能に任せて、足踏みをするように毎日を淡々と過ごした。
 日がある内は里長に振られている容赦ない量の仕事をこなし、家に帰る頃には人生の黄昏時なのではと思える程くたびれている。
 今日も何とか家に辿り着き、身体を清め、ベッドに沈んだ。仰向けになったまま、夕飯代わりに食べた差し入れが一体何であったかぼんやり考えていた。評判の折り寿司だったらしいが、全く覚えていない。半人ほど食べて、そのまま無人になった執務室の机の脇に置いて来たように思う。

(また、だらしないって??られるね、きっと……)

 睡魔が襲って来た頃、窓の外でガチャガチャと大きな音がして目が覚めた。近所に住む老齢の婦人が、夜の犬の散歩を終えて帰って来たらしい。犬は滅多に吠えないが、少し大ざっぱな性格の彼女は、夜間の戸の開閉などに遠慮がなく、家事などの生活音もかなり大きかった。
 再び眠ろうとしたその耳に、ガサガサと大きな荷物を抱えた人が道を行く音がした。許可台数は抑えてあるが近頃は里の外れに自動車も出入りしている。忍に限らず、里の人口は年々増えており、騒音と言うには大げさだが、耳のいい忍達はそれなりに不満も抱えている事だろうなとカカシは思った。

(近々、議題に取り上げねば)

 半分夢の中でそう考えていると、突然空気圧が変わり、窓が鳴る音で目覚めた。この家のどこかが開いたのだ。間違いなく玄関だろう。
 護衛の暗部達が正面から入ってくる事はまずありえない。かすかな焦りを覚えつつ、カカシは身体を起こした。
 蛍光灯の光に、カカシが目を細める。立っていたのはイルカだった。

「……イ、イルカさん……」
「すみません、お休みだったんですね。ああ、起きなくていいですよ、寝てて下さい。電気消しますから」

「消さなくていいです」 

 イルカは今しがた戻ったというように、リュックを背負ったままの姿だった。何でも無いように話すイルカにつられて、カカシも返事を返した。

「お、おかえりなさい」 
「あ、こんなほこりっぽいナリで、ごめんなさい」

 イルカは自分の身体に視線を這わせて、ばつが悪そうな顔をした

「お、俺の方こそ勝手に。ここはイルカさんの家なのに」

 カカシは慌てて床に足を下ろした。あれからずっと、この家に居座っていた。この家で寝起きし、この家に帰って来た。どのように細い関係でも、自分から切る事などとうてい出来なかったのだ。せめて、イルカが追い出してくれれば、酷く罵ってくれれば、その時こそ終わらせられる。我ながら情けないと思いながら、恥をしのんで待っていたのだ。
 そうしなければいけないと分かっていても、イルカから離れる事など、自分からはできない。

(さあ、突き放してくれ)

 カカシは刑の執行を待つ囚人のような悲愴な気持ちで、イルカを見た。

「何を言ってるんですか、おかしな人ですね」

 イルカは鼻の頭にくしゃりとシワを寄せて笑った。カカシの胸がどきりと鳴った。

「カカシさんの調子が悪そうだって連絡を受けてましたから、心配してたんですよ」

 事も無げにそう言い、イルカは手に持った紙袋の中から、四角い包みを引っ張り出した。

「夕飯食べました?通りの店で、弁当詰めて貰って来たんです。味ご飯のおにぎりもありますよ。これ、どうぞ。居間で好きなの摘んでて下さい、失礼して風呂に入って来ます」

 イルカは背を向けて部屋を出ようとする。

「……ど、どうしてですか」

 廊下を進むイルカを追いかけて、カカシは言った。

「平気なんですか、俺がこないだ言った事、何とも思ってないはずないでしょう、怒らないんですか!火ノ寺で、俺が!」

 驚いた顔をしてイルカが振り返った。

「カカシさん、ちょっと声が大きいですよ」
「腹が立たないの!?それとも、もう俺はそんな対象じゃないってことですか!」
「落ち着いて下さいよ、……って、先日の事ですか?そりゃぁ、何だか虫の居所が悪そうだなと思いましたが……、俺も勝手したことですし」

 イルカは人差し指で、顔に走る傷の跡を掻いた。

「なんで!なんでよ!アナタは俺を責める気はないんですか!この十年、俺は里長の座にかこつけて、イルカさんをほったらかしにして、ずっと、酷い事を……」

 気を抜けばイルカに伸ばされそうになる自分の手を、カカシは必死で押しとどめた。

「こんな関係のどこにアナタの幸せはあるっていうんですか!俺の勝手でアナタを縛り付けて、天職だった教師の仕事を奪って、アナタに子供も持たせてあげられない……!俺以上にアナタを不幸にする人間なんて、この世にいないって分かってます、俺が一番アナタの側にいちゃいけない人間なんです!」

「ちょ、ちょっと待って下さい。……そんなに一遍に、どうしたっていうんですか」

 イルカがリュックを廊下に放った。

「俺がいなくて、寂しい思いさせちゃったんですね」

 そう言いながらイルカは下を向いているカカシに手を伸ばし、胸に抱き寄せた。

「イルカ…せんせい……」

 カカシは動けなかった。

「寂しかったですよ、俺も」

 銀色の頭がイルカの胸に押し付けられる。

「あのね、カカシさん。俺はご存知のように、若い頃から三代目について、綱手さまの事もお側でずっと見ていました。里長としての火影が、とんでもなく忙しい事をよく知っています。だから、少しの間でもカカシさんが俺のところへ帰って来てくれるだけで嬉しかったです。俺もまだ鍛錬を積んでないから、時々会いたいとわがままを言いましたが」
「あんなの我がままじゃない……」
「それに、皆さん教師が俺の天職だと思ってるかもしれませんが、うみのイルカは木ノ葉に生まれた忍の子です。ナルトのように、一番の夢は火影になる事でした」

 イルカは懐かしそうにそう言った。

「でも、それが自分には難しいと早々に知り、両親を失ってからは、口にする事はほとんどありませんでしたが、子供の頃に抱いた気持ちを忘れたわけではありません」
 カカシの小さく丸められた背中を、イルカの優しい手が何度も擦った。

「やがて、里長にならずとも、火影の忍として、胸を張れる生き方をしようと思うようになりました」

 ポンと少し強めに背中を叩かれて、カカシはおずおずと顔を上げた。

「カカシさんは俺の誇りで、火影となったあなたを誰よりも近くで支えているとの自負があります」

 イルカは愛し子を見るように眉尻を下げて、カカシを見ていた。

「三代目、綱手さま、そしてカカシさん。火影となった人の労苦を、こんなに間近で見てきた人間も少ないでしょう。まして、あなたは俺の恋人で」

 どこまでも深い色をしたイルカの瞳に、カカシだけが映っていた。

「一番大切なのはあなたで、だから、周りで何が起きても気になりませんでしたよ」

 二人の関係が認められる事がなく、火影の妻の座をめぐり、周囲の思惑でカカシの周りに女の影がちらついた事が幾度となくあった。それについて、カカシは一度も弁明したことはなかった。その頃のカカシは、イルカが自分に愛想を尽かすきっかけになればと、ほの暗い気持ちとともに時を過ごしていた。

「火影となったあなたが苛立をぶつけられるのは俺だけだと知ってましたから、ちょっとした優越感もありましたし」

「そんなの嘘だ」

 カカシはイルカのベストの裾を強く掴んだ。 

「全部ささいな事ですよ」

 イルカは宥めるようにカカシの腕をさすり続けた。

「嘘で終わりだと言ったんじゃありません……。アナタ、俺が待っていなかったら、どうするつもりだったんですか!」
「待っててくれたじゃないですか」

 くすくすとイルカは笑った。

「笑わないで!」
 小さく叫んだカカシに、イルカがハァっと息を漏らす。

「仕方ないですよ」
「何がです」
「あなたに会えるのが一年に一度でも、たとえ百年に一度でも、俺はずっとカカシさんを好きだと思うから」

 火ノ寺に現れたカカシの姿を見て、イルカの顔に浮かんだのは喜びの色だった。

「何があっても、変らない。愛してるって、そういう事でしょう?」

 真剣な目をしてイルカがカカシの顔を覗き込んだ。
 写輪眼が親友の元へ返ってからと言うもの、溢れる事がなかった涙が、カカシの目から流れ落ちそうになる。それをぐっと堪えようとすると、何も言葉が出なかった。

「も?、拗ねないで下さいよぅ」

 言葉が出てこないカカシを、イルカはまだむくれていると思っている。あやすようにゆさゆさと揺すられ、カカシは目を閉じた。自分は、この人にどれだけ助けられて生きて来たのだろう。

「……イルカさんの、ケチ。そういう大事な事は、もっと小出しに言って下さいよ」
「俺、不器用なんですもん」 

 イルカの背中に腕を回し、ベストの首元に埋めるように顔を寄せた。

「短い髪のアナタも、好きです」

 イルカの襟足に手をやり顔を上げると、まるで磁石のようにどちらからともなく、唇を合わせた。
 この人の手を一時でも離そうと考えた己が、信じられない気持ちだった。天地がひっくりかえろうと、決して自分には出来ない事だった。だから、あれほどに苦しくて仕方がなかったのだと、カカシは思った。

   







 月日が巡って。
 結願が叶うまで、イルカは教えてくれなかった。

 それから度々イルカは、火ノ寺に出向いた。忍として神経をすり減らす日々よりも、お寺での修養生活が気に入っているくらいにしか思っていなかった。カカシは寂しくてイルカが家を空ける度、臍を曲げたが、晴れて隠居の身になるまでそれは続いた。
 ナルトの七代目火影襲名の日に、カカシは慰安を兼ねてイルカを彼の趣味とする温泉旅行に誘ったが、結果を言えば断られた。
 何を置いても、まずはお礼参りにいかなくてはならない。カカシはまたここで拗ねて見せたが、イルカは絶対に首を縦に振らなかった。
 曰く、火影はその任期の間に命を落とす、そういうジンクスがあったのだとイルカは言った。
 過去に、怪我で死ぬ事の無い不死の秘術を身に着けた綱手のみがかろうじて助かっただけで、歴代の火影はまるで人柱のように、任期中に命を落とす運命を背負わされて来たとイルカは説明した。
 時代的にそうならざるを得なかっただけではとカカシが言ったところ、イルカは見た事も無いような恐ろしい顔つきで、俺がどんなに心を痛めて来たか逆の立場で少しは考えてみなさい、と叱咤した。そう言われて、カカシは返す言葉が無かった。
 忍が命を惜しんで神仏に祈るなど、とても外聞がいいものではない。イルカは考え抜いた末、一大発起して、火ノ寺で願掛け参りをしていたのだ。ごく少数の紅などの協力者の力を借りて、結願が叶うまで周りに火ノ寺参りの目的を知られないようにしていた。
 カカシが覚えている限りイルカが酷く痩せて戻ることもあり、おそらく信心修行として、断食や断水、不眠、不臥の行もしていたものと思われる。

「アナタの愛情は底なしですね」

 そう告げると、里の為ですからと耳まで真っ赤にしてイルカはそっぽを向いた。
 結局同行してくれなかった温泉旅行が終われば、お礼参りから戻って来たイルカとの水入らずの日々が始まる。あの人に惜しみなく愛を伝えよう。もう一度新婚気分が味わえると思うと、こみ上げる嬉しさにだらしなくにやついてしまうのを抑えられなかった。


終わり




(2016.9.15)

時間が無く見直しできてません!後ほど修正します。
カカシ先生の誕生日になっっちゃった。はぴばーーー!





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