――駄目だとか3―――

「失礼します」

沈黙が破れた。
襖が開けられ、店の女将がイルカの注文した魚の煮つけと、炊き上げたカブを運んできた。
久しぶりに顔を出したイルカの疲れた様子を見て、それからカカシを見て、もっと腹の足しになるような物を用意するかと聞いた。酒をこれ以上飲むなということらしい。
店の女将が商売っ気が薄いのも事実だが、いつもながらに、こういうところは女性には敵わないとイルカは思う。赤子の顔色を見て、その体調を伺い知る能力が生まれつき男性より高いとは言え、そこから手を差し伸べる母性は自分が男である分、眩しく感じる。
イルカは少しほっとして、味噌汁とごはんを後でもらいますと言うと、女将は温かい麺物も用意できますからね、とにこやかに頷いて戻っていった。
間が空いたことで、イルカは落ち着きを取り戻した。疲労が重なる事で、近頃冷静な判断を下せない自分がいたと思い出す。

「噂、知りませんでしたが…、それでヨシノボリ先生が俺達に仰ったことの意味が分かりました」
「ヨシノボリ上忍?あなたの上忍師だった方ですね」
「はい」

そこでイルカは、座卓に額が当たりそうなところまで頭を下げた。

「まずは、すみませんでしだ。友人が殉職して、その残された妻と子のその後の暮らしを世話して、ここのところ時間に余裕がありませんでした。碌に説明も無く…あの夜失礼したまま…カカシさんには申し訳ないことをしました」
「…いいんですよ。俺達は約束したこと、なかったでしょう?」

イルカが顔を上げると、カカシと一瞬だけ視線が合った。だが、「いい」という言葉とは裏腹に、カカシは酒に酔った赤い顔から表情を消して、ふいとまたあらぬ方を向いた。
かつて楽しそうに話を聞いてくれたカカシがいない。
カカシと食べる物は、なんだって美味しく感じていたのに、今夜は味がしないばかりか、喉に入っていかない。
イルカは姿勢が悪いから余計に胃の具合が悪いのかと、腰を上げて居住まいを正そうとして、目の前にいる人物と机の影に隠れた空間に、空になりかけた焼酎のボトルがあるのが見えた。お茶でなくお湯の入った小さなポットがあったのはそのせいかと気づいた。
自分が来る前から相当飲んでいるように感じたのは間違っていなかった。
この人は目の前にいるくたびれた中忍に今更会う事が、面白くなかったに違いない。最初から酔っているのはそのせいだと思う。
それでもカカシはイルカより年嵩で分別のある上忍であるから、相談を持ちかられたことに対して、無理に付き合っているだけなのだ。
本来なら友達甲斐の無い奴だとののしられてもしょうがない。
それを我慢して、カカシが飲みたくも無い酒を飲んでいるのなら、一刻も早く話を終わらせなければならない。
イルカは謝れば赦してもらえると考えていたふしがある。甘えた考えである上に、カカシを舐めていた。

「先程の話の続きですが、殉職したスギナの子の引き取り手を里で探し、早い内にその母親を生まれ育った家に帰した方がいいと、ヨシノボリ先生は判断されました。カカシ先生が先程仰ったように、このまま忍の里で彼女が一人子を守って生きていくのは難しいと俺も思います。けれど、まるで追い出すみたいで頭では分かっているのですが、納得できなくて…」
「お酒、追加したのに忘れられてるみたい…」

ポツリとカカシが言う。

「いろいろ考えたんですが、喪が明けたら彼女と子供を俺の籍に入れて、家族になろうと思うんです」

カカシが酒に酔った座った目でイルカをぼんやりと見ている。白目が蛍光灯の光りを反して、嫌なほど冷たい色を浮き上がらせている。

「誰かに話した?」
「いえ、カカシさんに相談するのが初めてです。むやみに話せる事ではありませんから。でも、子供と母親を生き別れにさせずにすむには、これが一番の方法だと思うんです」
「その人のこと好きなの?」
「恋愛感情はありません。ただ、ヨシノボリ先生の奥様が昔はそういう方法をとったとお聞かせくださって」
「好きではないんですね?」
「一緒に暮らしながらよく話し合っていけば、暖かい家庭を作れるだろうと思います。縁あっての見合い相手が彼女のような人だったとしても、俺に否はありません。…それよりも、ツクシが…、スギナの子ですが、まだまともに喋れもしないのに、俺の事を父親に呼びかけてたのと同じ様に言うんです。『とと』って…、俺が帰る度、泣くんです」
「相談事がそれ?…俺の想像した通りですね」

気のない返答ばかりをした挙句、「はぁ」と深いため息がカカシから漏れる。

「結論から言えば誰もが反対すると思います。俺も反対です。愛情がないと分かっていて、馬鹿なことを言うんじゃありませんよ。それでアナタが幸せになるって言うんですか?同情だけで母子二人の人生を引き受ける気ですか?」

頬杖をついた姿勢で体を支えながら尚、カカシはイルカの目だけは見ようとしない。余計にカカシがイルカの相談事は聞くに値しない事だと言われているように感じられる。
けれどもイルカは誰もが反対するという言葉に、そんなことはないだろうと首を傾げる。

「愛情は育くんでいけると思います。俺の両親も、はじめは三代目にお見合いのように引き合わされたそうです。今そうでなくても、俺は愛せると思います」
「子供をタテにされたら、アナタ、相手が仇だろうがなんだろうが、誰とだって上手くやっていこうと努力するでしょう。でもね、そんな無理をする必要がどこにあるんですか?もしかして、その未亡人に頼まれた?」
「いえ、そんなことは。…でも俺が思うに、頼れる人間がいたら彼女も安心してこの里で子供の側で過ごせると思うんです」

口をへの字にしたカカシが、傷ついた目をしてイルカをキッと睨んだ。

「あなたが頼むなら、俺がその親子を援助したっていい。それこそ何だってしますよ!だからそんな自分を安売りするような事しないで下さいっ!」
「安売りってわけじゃ…、今のままじゃ拉致が空かないし、新しい一歩を踏み出すのにも俺ができることを考えたら」
「それで八方丸く収まるって考え付いたってわけですか?そうですよね、あなたなら二人を幸せに出来るでしょうし、皆感謝するでしょうね。でも、そんなこと良いわけないでしょう…!?」

テーブルの上で強く握られたカカシの拳が、ブルブルと震えている。
イルカはふと気づいた。そうだこの人は、カカシは、いつも優しい。

「カカシさんは…、俺のことを思い遣ってくれてるんですね。ありがとうございます。スイマセン、俺なんかの為に…」

カカシの悔しさを押し殺した声が聞こえた。

「アナタの人生をその親子にくれてやるの」

ひったくるようにしてイルカの手首をカカシが掴んだ。そんな乱暴な動きに驚いてカカシを見れば、泣きそうに歪められた顔がある。

「だったら、俺には……あなたの心を、イルカ先生の真心だけでも下さい……お願いです」
「え…?ど、どうしたんですか?」
「ずっと一緒にいて欲しいなんて大それたことまでは望みませんから…だから、心だけでも俺にっ…」

何かをこらえるようにグッと眉を寄せ、カカシは正面からイルカを見据える。

「アナタが愛した女性と結ばれるなら、俺はこんなコト、生涯口にするつもりはありませんでした。でも、好きでもない相手にイルカ先生がその身を捧げるのなら、俺には心をくれたっていいじゃないですかっ!」
「カカシさん…、あ、あの…」
「俺のお願いは馬鹿げていて、聞いてもらえませんか…」

カカシの瞳に哀しみがある。
友達の心が離れていったら誰だとて寂しいとイルカは思う。
カカシとは親友になれたと思っていた。
カカシもそうだろう。
それをあっさりと放棄したに等しい状態で過ごしてしまったのはイルカの罪で、カカシがそのことを許し、イルカの真心が欲しいのだと思えば、掴まれた腕がジンジンと熱を持つ。

「俺が不甲斐ないから、色々心配させてしまって申し訳ありません。でも、これからは時間も作れるようになると思うし、もっと、カカシさんのお話を聞いたり、相談に乗ってもらったり、前みたいに一緒に過ごすことが出来る様になると思うんです。だから失敗もするとおもいますが、心配せず見守って下さい」

カカシを安心させたい一心で、イルカは言葉を選んだ。
まだいい足りないような気がするが、言葉に表せないのなら、これからの自分を見てもらえばいい。
カカシが見ていてくれると思えば、どんな事だって頑張れると思う。
三月の間、毎日晴れない気持ちで過ごしていたのが、カカシとちゃんと話をすることで嘘のように消えた。

「………で…きるかな……」
「俺も男ですから、頑張ってみます」
「…そうだね…イルカ先生も…俺も、男だもんね…」

そう言いながら吐くカカシの吐息は震えている。
イルカはそれ以上考えることが出来ずに答えも返せずに黙ったままカカシを見詰めていた。
その時、襖の外でイルカを呼ぶ声がした。

「うみのさん、同僚とおっしゃる方からお電話が入っていますが、おつなぎしてよろしかったかしら」
「は、はい?お、お願いします」

正気に戻ったイルカが、すぐ戻りますと恐縮しながらカカシに頭を下げ、襖に手を掛け座敷を出て行こうとすると声が掛かった。

「…アナタ、ここへ来る事も、態々知らせてあったんですね」
「ツ、ツクシがよく熱を出すものですから…」

スギナ母子の生活を手助けしている男達の中では、イルカが一番子供の扱いに長けている。だから何かあればとにかく自分に連絡をしろと、そうするのが当然だと思って、今夜も出掛けてきた。

「もう、今夜はそのままお帰りになって下さい」
「で、でも…」
「アナタも気が気じゃないでしょう。ここの払いは俺が済ませておきますから」
「そ、そう仰るなら、また今度お時間を作って頂いてもいいですか?」

イルカはここでつまみ程度で食事らしい食事をしなかったが、ツクシが夕べから咳をしていたことを思い出して、そちらが気になり出した。
カカシがせっかくそう言ってくれているのだから、今は小さな子供を優先した方がいいような気がする。

「また受付でお会いした時に、ご予定を伺いますので。今夜は本当にすみませんでした」

ペコリと頭を下げると、カカシはしょうがないというようにイルカに微笑みかけた。

「俺達は、そんな関係じゃないでしょう…。いつだって何の約束もない関係なんだから…気にしないで下さい」
「カカシさん…」
「相談に何も返せなくてごめんね」

言うなりカカシは手を振った。
息を吐きながら肩をすくめ、ふっと逸らしたカカシの顔から表情が消えるのが見えた。
イルカは何故だか胸にくすぶるものを感じながら、一礼して部屋を出た。




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(2010.5.1)



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