夏の夜の夢1


 人の耳は騒音に順応する。慣れてしまえば不快な雑音も気にならなくなる。緑深い木ノ葉の里では、耳障りな人工的な音は少ない。けれど、夏の蝉の声だけは違う気がした。
 カカシの耳はいい。忍犬には遠く及ばないものの生まれつきよかったようだ。自前の目を一つ失い、隻眼で生活するようになってから一層性能が上がった。前よりずっと人の声を聞き分けることが出来るようになり、小さな音まで拾えるようになった。その代わり、皆が気にしないような小さな雑音がとても耳につくようになった。
 そのせいでカカシの部屋のベッドは玄関を開けて直ぐの所に置いてある。そこが唯一アパート全体の柱や梁を伝わってくる、様々な振動音が一番聞こえない場所であるためだ。玄関の扉を開けたら目隠しも何もない状態で寝床が見える。友人や付き合いのあった女性には不評であったが、カカシなりの自衛策だった。
 今年は蝉の当たり年なのか、特に五月蝿い夏になった。早朝から夕暮れまで、時には何を思ってかアパートの外壁にくっついたまま夜間に鳴き出す困ったのもいた。
 同じオスに生まれた者としてメスを求めて鳴く姿には少なからず同情を禁じ得ないものがあったが、惰眠や思考を遮られてはその存在が迷惑としか言いようがなかった。
 短い夏を生きる彼らの腹は、そのほとんどが鳴き声を大きくする為の共鳴装置になっている。それを知ってから、夏の風物詩であるにもかかわらず、彼らの生み出す音が異質なものに感じられ、任務に差し支えない範囲でだが無性に気になるようになってしまった。
 ただ、近頃は木の葉にはいなかった南方の鳴き声も体も大きなものが増え始めている。もともと木ノ葉に棲む何種類かの蝉の声は、ほとんどがその大型の種類に圧され、聞こえてくる事が少なくなった。カカシは絶え間なく聞こえてくる蝉達の声にうんざりしながらも、自分の知る故郷の里の夏はどこかに行ってしまったのかと少しだけ淋しく感じた。
 時が進むともに変わらずにある物など無い。自分を含め自然は生きている。変化は悪い事だとも良い事でもなく、一緒に変わるか受け入れるしかない。ただ実感として変遷する世界を目の当たりにし、カカシは上忍として任務に明け暮れる毎日を過ごしつつ、自分も確実に年齢を重ねているのだと知った。
「おい、カカシ。聞いていたのか」
「すみません、蝉の声がうるさくて」
「ふん、これしきの暑さでやりするんじゃないよ。意見がないならもういい。補佐はこちらが選出した人間を使え。後で文句言うなよ」
 木ノ葉のあまたいる忍の中で最高峰に立つ女傑は、摂氏三十五度を超える室温の中どうしてそうしていられるのか、美しい娘のような顔に汗一つ浮かべることなく涼しげな眉を持ち上げてこちらを見た。
 ガラスない開放型の窓からは、近くの建物に止まった蝉たちの声がシャワシャワと競い合っている。退屈紛れに何匹いるのか数えていたが虚しくなって止めた。
「やっぱり俺にやらせるんですか?ここの任務は遠慮すると伝えてあるんですがねぇ」
「三代目との口約束など、私こそ聞いてない」
「そんなの酷いですよ」
「年にたった一度の任務でごちゃごちゃ言うな。上忍が順に一人ずつ受けて、巡って今年はお前の番だよ」
 綱手が顔をしかめ出したので、これ以上の反論は得策ではないとカカシは渋々依頼書を手にした。
「十年前に行ったのに、俺の順番早くないですか?」
「妻帯者や問題を起こしそうな若造は外してあるからな、仕方ないだろう」
「ちょっと待って下さい、妻帯者じゃなくたって俺だってそれなりに…」
「それなりに何も変わっとらんじゃないか。少しは甲斐性を見せろ。自来也の孫弟子のくせして」
「綱手さま」
 端で聞いていた付き人のシズネが堪らず声を掛けた。女性の強さが際立つ木ノ葉では、女性が男性を言い負かすことが多い。今日も里の稼ぎ頭が、里長に気の毒な任務を言い渡されていた。
 度胸と根性が座っていなければ女が忍を目指すこと自体難しい為、彼女達は努力家で向上心が強く、特別上忍や上忍になる比率が男性に比べ格段に高かった。
 反面そのようなくの一を母に持つ木ノ葉の男性陣は、他の里に比べても気持ちが優しく口数の少ないナイーブな者が多くなってしまった。
 それでいて歴代の火影の志しの高さに加え、団結力が強く、各々が火の意志を持つ木ノ葉の忍団は、五大国最強と謳われていた。
 さらに言えば、その中に名を連ねるくの一達は自然とタフで度量も大きくなおかつプレッシャーにも強くなっていった。そのような条件が揃いすぎているため、木ノ葉のいかなる男達の間にも、五代目火影をはじめ女性陣の眼の黒い内は、うっかり碌な悪さも出来ない空気があった。
「千早の国は忍具に使う貴重な鉱石も取れるし、採取される薬草の質も最高だ。ウチの優秀な医療忍術や飛び道具の強靭さは千早の国の産物によるところが大きいのだ。その千早の国との重要な外交上の付き合いでもある。だからこそ名のある上忍を毎年向かわせる。お前に選択権はない」
「…ですが」
「公費で遊ばせてやろうというのに、オマエ、それでも付く物がちゃんと付いているのかい!」
「綱手さまッ!」
 任務の要請に嫌々頷いた後、執務室を退出しようとした間際に綱手が一枚の紙を掲げた。任務に就く人物のリスト表だ。
「出発は明朝五時。遅れるんじゃないよ」
 その中に、唯一自分が意識的に人と人との関係で変わらない努力をしてきた人物の名があった。

―――うみのイルカ。

 カカシは今日一番のため息をついた。
 この任務、彼なら大丈夫だろうと思う反面、一緒にいる自分が果たして平静を保てるかどうか不安を感じた。
 リストには他にも二人、二十代半ばの中忍の名が連ねられていた。二人とも任務を共にしたことがあるが、実直でどちらかというと晩生の部類に入る。任務帰りに大規模な公娼地の近くを通ることがあっても羽を伸ばす組に入らず、荷物番を買って出るタイプの人間だった。
「この人達はだからこそ選ばれたのか」
 任務の依頼は、千早の国の中にある夏の里からである。ここはかつては木ノ葉の里の飛び地だと言われた古い里である。この地は、時折木ノ葉育ちも敵わないような能力の高い人間を輩出する。決まってそのような人物は幼いうちに木ノ葉に引き取られ、大事に育てられてきた。大抵は生みの母親も一緒にそのまま木ノ葉に定住し、中には木ノ葉の忍と所帯を持った。そしてその夏の里生まれの子はもれなく忍になった。
 カカシは今までにそのような木ノ葉の忍を義理の父に据え、夏の里の女を母に持つ子供の家族を何組も見たが、観察眼の優れた人間の目にはそれが本当に血の繋がった親子だということがすぐに知れた。任務で赴いた忍と、夏の里の娘との間に子供が出来たに過ぎない。隠れ里では公に里外の人間を娶る事が嫌われるため、生まれた子供の素質などを理由に婚姻を認めさせることがあった。忍は一朝一夕でなれるものではなく、その身体に流れる血こそ最も重要な要素であるためだ。
 任務のメンバーにイルカの名がある。綱手が選出したのだろう。彼と一緒の時間を過ごすことに魅力を感じるが、任務の内容をこの中でただ一人身を以て知っているカカシは同時に苦い思いがした。
 彼とは出会ってから変わらない距離を保っている。近付きすぎる事もしないが無関心なそぶりも見せず、友人でもなくただの知人でもない関係を維持していた。それを決め事のように守っている自分は、ある種マゾめいた性癖の持ち主ではないかと悩むこともある。カカシはもう何年もイルカのことを想う自分を知っていた。




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(2011.12.5)



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