夏の夜の夢10


「おいおい、何をしてるんだカカシん坊」
 ここに居るはずのないカカシの姿に驚いて、家主であるツルギは入って来たばかりで声を上げた。
「カカシん坊は止して下さいよ」
 囲炉裏端に座るカカシは、返事をしながら火箸を操り灰の上に置かれた赤い炭を転がした。
「ここら辺は夏でも夜はかなり冷えますね。いつもそうなんですか?」
「ああそれに、火を絶やすと置いてある薬草が湿気るんでな、問屋に卸すまでも手間がかかるんだ」
 ツルギは素早く履物をぬぐと土間から上がってきた。
「今夜は本祭りだろう」
「ま、招待客の中に大物が居たので、本人かどうか確証を得ようと動いてみました。探ってみれば街から離れていますが、里外れの旅籠にいつも供をしてる人間が逗留してました。彼は本物です。間違いありません。先を見て、いつ何時必要になる有利なカードが得られるか分からないものですね。ちょっとした土産が出来ました」
「ったくそれは俺の仕事だろうが。…美野屋の方はどうした?隊長の分際でお前と言う奴は全く」
「大丈夫、ぬかりありません」
 なんでもない風にカカシが答える。ツルギは腕組みをしながらカカシを見た。
「十年前と一緒だな…。ここにいるお前は影だって言い張るなら俺は何も言うまいよ」
 苦りきった顔でツルギが言った。
「ツルギ隊長はよく覚えておいでで」
「お前にゃ恩があるからな」
「違いますよ、お力があったのは自来也様ですよ。ツルギさんのそれまでの忍としての働きもあったし、俺はまだほんの子供でした」
 ツルギは十年前に隊長として赴いた夏の里の任務で、美野屋で出逢った女に惚れた末に所帯を持った。既に名の通った上忍だったツルギなら里の外から妻を迎えるという我が侭も叶うはずだった。
 しかし、老いた母を抱える女が遠い木ノ葉に嫁ぐことは出来ないと言うので、ツルギはとうとう忍を辞めると言い出した。そうなると話は振り出しに戻った。里としてもみすみす優秀な上忍を手放すわけにはいかないからだ。まだ十代だったカカシは部下としてチームに加わっており、一部始終を目の当たりにしていた。
 カカシは忍をやめる覚悟をしたツルギを心配した。上層部から厳しい反対にめげず、ツルギは虚しい抵抗を続けた。
上に立つ年寄り達は、権力で人の心を無理にねじ曲げようとしている。カカシはそれは双方に取って危険だという思いから、せめて草として夏の里で暮らせるように火影や上層部をどうにか説得して欲しいと、熱心に自来也に口添えを頼んだ。どのような説得があったかカカシも詳しく知らないが、話はなんとか収まった。その件についてツルギはカカシに恩があると感じている。カカシとすれば、たまたまツテのある自来也に里を動かすだけの力があったと思っている。
 草として生きることを覚悟した男は、自らの血を引く子供を作らない事を決意した。妻となる女もそれを受け入れた。木ノ葉を離れる以上、男の中でのけじめだったらしい。子供が宝とされる木ノ葉では、彼らの間に生まれた子供を引き取る算段をつけていた。しかし、子供を忍にするために母親から引き離すくらいなら、子を持たない人生を選んだ。
 一連の出来事は、まだ若いカカシに少なからず驚きをもたらした。まだ短いながらも、里の誉れとまで言われた白い牙の息子として、真面目に里の掟に迎合するように自分の心を知らず縛り付けて生きて来たカカシは、ツルギのような生き方もあるのだと知って、また一つ視界が明けた気がした。
「まぁ好きにしろ、カカシ。俺は忙しいからな。祭りの裏方の手伝いに行っている女房のやつに岡惚れして悪さするような輩が現れないとも限らねぇから、これから朝まで美野屋の天井裏で張り込みしてくるぜ」
「ああ、ツルギさんによく似た客がいましたから、早く行った方がいいですよ」
「そういうところ変わってねぇな…」
「残念ながら」
「ちっ、酒が飲めるようになったお前と一杯やりたかったが、それはまたお預けだ。悪いなカカシ」
 ツルギが小屋を後にすると、途端に静かになった。何もすることの無くなったカカシは再び火箸で囲炉裏の灰をかき回した。
 何もせずには居られない。無論眠る気にもなれない。思いを振り払っても考えるのはイルカのことばかりだった。
 カカシは今日、日が落ちると同時にはじまる本祭りを、心を落ち着けてじっと待つことさえ出来なかった。イルカのことが頭から離れなかったのだ。
 美野屋のどこか、カカシの知らない一室でイルカが女を抱く。誰をおいてもイルカを一番に気に入る女が現れたらどうなるのだろう。カカシは身震いをした。
 もし自分が夏の里の女なら、一晩中イルカの部屋からどこへも行かない。他の誰が来ようが追い払い、後でどんなに叱られようが、彼の胸を独り占めする。それがたった一晩でも彼を独り占めする。
 だが、男に生まれたカカシにはそのチャンスさえない。足の力が抜け惨めにドサリと尻餅をついた。
 締め切られた部屋の中、外から僅かに漏れる光は夕暮れの色をしていた。カカシの中に耐え難い焦りが生まれた。考えてもどうしようもない事ばかり頭に浮かぶ。
 イルカを失うわけではないのに。そう自分に何度も言い聞かせて納得したつもりでいたのがこのザマだ。自分はこの先も一歩離れたところからイルカを見守るはずだった。
 震える指で印を組み、カカシはもう一人の自分を創った。そして自分の影分身に後の事を託し、屋根裏から屋敷を抜け出した。
 あのまま美野屋にいたらきっと自分は望むままに、女に化けてでもイルカがいる部屋の扉に手を掛ける。
 カカシは土壇場に来てついには逃げ出したのだ。イルカを慕う気持ちの前では、数々の武功も忍としての経験も何の役にも立たない。
 心を鈍らせる事は出来る。だから今回の任務でイルカの名前を見つけた時も、上忍として当たり前の道を選んでみせた。今までずっとそうして来たように。
 イルカなら理不尽な任務で伴侶を得る事になっても、きっと幸せな家庭を持つ。この任務を与えた火影もそう判断したはずだ。カカシも間違いなくそうだと思った。しかし、それは頭の中で考えた事で、事実を目の前にすると、愚かなほどに狼狽える自分がいる。イルカを任務に臨ませる、それでいいと思ったことは確かだが、カカシの心が納得した訳ではなかったのだ。
 これほどまで好きになってしまったものを、無かった事にすることは出来なかった。誰よりもきっと自分で考えている以上に深くイルカを想っている。だからこんなにも苦しいのだとカカシは知った。事実を見届けることさえ出来ずに、カカシは逃げ出すしかなかった。




 

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(2012.07.06)




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