夏の夜の夢11



カカシの居る小屋の周りで鳴いていた虫の声が一瞬途絶えた。戸口を睨みカカシは身構えた。
 何者かが扉を開けようとしている。ツルギが用心の為に用意した分厚い樅の木で出来た引き戸は、心張り棒をしている為容易には開かない。扉を小さくノックする音が響いた。

―――トトン

 その合図を使うのは木ノ葉の忍である。耳を澄ませて扉の外の様子を窺うが危険な気配はない。
「…俺です」
 思いもしない声にカカシははっとして素早く戸口へ駆け寄ると、扉を開けた。そこには夜風に黒髪を湿らせたイルカが所在なげに立っていた。
 小屋主のツルギではなくカカシが扉を開けた瞬間、イルカは驚いた表情をしたものの、相手を認めるとすぐに困ったような顔をして微笑んだ。
 緊張を解いて安心した様子で表情を崩すイルカに対し、カカシは乱暴な仕草で手首を掴むと、小屋の中へ引っ張り込んだ。そして扉を素早く閉めると、元のように心張り棒を噛ませた。
「何してんですか、アンタはッ」
「カ、カカシさん…」
「任務はどうしたんです!」
 カカシの剣幕にイルカは身をすくめた。
「のこのこ正面からやってきて、誰かに見られていたらどうするつもりなんですか!」
「す、すみません。一応誰にもつけられてはいないと思うのですが…」
 カカシはちっと舌打ちする。
「当たり前だ!」
「か、勝手をして申し訳ありません」
「口先の謝罪はいい」
 カカシの言葉に納得しかねてか、イルカの噛み締めた唇が僅かに歪んでいる。カカシも同じように任務を抜けているではないかと言いたいのかもしれない。
「分かってませんね。本祭りの夜、あんなことが行われているのはなにも美野屋みたいな決まった場所だけじゃない。運が悪ければアナタだって草むらで押し倒されていたかもしれない。一対一ならまだいい。徒党を組んで襲ってくるとも限らない。こんな山深い里では神事がどれほど重要視されているか、神仏を顧みない忍にはとうてい理解できないことかもしれませんがね」
「……」
「ここの人たちにとっては一年に一度、溜まった澱を祓い家々に新しい風を取り入れる大事な祭りなんですよ。だからその為の用意も怠らない。アナタは自覚がないかもしれないけど、その赤い目、かすみがかかっているでしょう。舌だって熱っぽく腫れているはずだ」
 カカシにそう言われイルカは瞬きをした。たしかに乾いた目は熱をもち、舌にはずっと重たいような感覚がある。
「美野屋に焚き染められていた幻惑の香。あれは単に思考を鈍らせるだけじゃなくて、あの屋敷で出された酒や食べ物に僅かに混ぜ込ませた麻薬の類を劇的に吸収させる効果があるんです。忍の人間でも嗅いだことがない成分が含まれている、夏の里のオリジナルでしょう。自分達は耐性があると油断して、前の晩からアンタ達は充分に怪しい物を取り込んでしまっているんです」
 大きくため息を吐かれ、イルカは堪らず後ずさりした。あからさまに不機嫌な様子を隠そうとせず、カカシはイルカを睨みながら言葉を続けた。
「動機や体温だって上がってるはずなのに、木ノ葉の中忍のアナタはそんなことも気づいていない。闇に乗じてその辺に転がされたって、碌な抵抗もできないんじゃないの?一度身体に火がつけば、嫌じゃなくなるだろうけど。まあ、かねてよりそれが俺たちに課せられた任務ですが、美野屋を抜け出てきてそれじゃ、話にならないでしょう!」
 イルカは黙ったまま土間に視線を落した。その両脇に下した手は屈辱のせいか硬く握り締められている。けれど、カカシの腹立ちはこんなものでは納まらない。もしそうなっていたら、カカシは自分が何をしでかすか想像もつかないほどの事なのだ。
「実際酷い内容の任務かもしれない。しかしねイルカ先生、こんな勝手をするアナタを許せると思いますか」
 カカシが苦心して、部下が迷いを持たないように進めた事を、イルカ一人無視した形となった。しかも何も知らないとはいえ、この里外れのツルギの家まで危険の潜む夜道を駆けてきたのだ。か弱い乙女だろうが、腕の立つ忍だろうが関係ない。イルカだからこそ、カカシは胸を掻きむしりたくなるような気持ちにさせられているのだ。
 何も分かっていないのなら、いっそどうしてこの人はカカシの思い通りに動かないのだろうと思った。先程カカシの姿を目にし微笑んだイルカの顔が、まるでこちらの焦りを笑っているようにさえ思えてくる。
 イルカの無事に安堵したと同時に、これまでの苦しい葛藤がすべて無駄になったのだ。カカシの中でやり場のない怒りが芽生えた。
「…細心の注意を払って屋敷を抜けてきました。しかし、私が任務を放棄した事には変わりありません。万が一里が不利益を蒙るような事があれば、いつでもその責めを負う覚悟はあります」
 腰を深く折り曲げカカシに頭を下げながらイルカは更に続けた。
「里へどのように報告して頂いても構いません。申し訳ありませんでした」
 イルカのその潔くも自分自身を顧みない一言にカカシの怒りは頂点に達した。
「勘違いしないで下さい!何の仔細があろうと、どんな任務であれ、成功も失敗の責務もそれはこの隊を任された俺が担うべきものです!」
 叱責を受け真っ赤になってイルカが俯いた。カカシは激しい苛立のまま戸に手を掛けイルカに背を向けた。
「誰が来ても扉を開けないで下さい。今夜は家主のツルギも戻らない。戸を叩くのは相手を探して徘徊している人間です。絶対に知らないフリをして過ごしなさい。もしこれくらいの事を守れないのなら、アナタに何があろうと知りませんよ!」
 イルカが何か言ったが、その言葉が耳に届く前に、カカシは小屋を飛び出し闇夜に溶け込んだ。
 走りながら、もはや誰に対してなのか分からない怒りがふつふつとこみ上げてくる。
 イルカは任務を放棄して小屋へ戻ってきた。戻ってきたホッとした表情とその姿を見れば、イルカの身には何も起こらず美野屋から逃げるタイミングを見計らって、抜け出てきたのだと分かる。それはここまでのことが全部無駄骨になったことを意味していた。彼は何一つ変わらぬままカカシの前に戻って来たのだ。
 なのに任務上しかたなかったとはいえ、カカシが上に立つ者として部下にした仕打ちは消せない。元々女遊びさえ好まない彼らに、任務だからと無理に女の相手をさせようとした事実だけが残ってしまうだろう。それも一晩に何人も世話するような。くの一に、何人もの男の相手をしろというのと何が変わらないのだろう。所詮カカシもかつて嫌った木ノ葉の上層部の連中と変わらない場所にいる。
 最初から余計な疑念を頂かないように、ギリギリまで何も言わずに現場へ引っ張ってきた。彼らは各々の判断で任務を終えるだけの忍としての器量を備えていると、カカシは判断していた。そしてあくる朝、戦闘で味わう虚しさとは違う別の何かを引きずりながら、重い足でこの任務を自分達に強いた里へ帰るのだ。きっとそこには互いに交わす言葉は無くとも、空虚な気持ちと引き換えに、一緒の任務に就いた連帯感だけは生まれているはずだった。
 イルカは任務を放棄して戻ってきた。仮にこのことで夏の里において問題が起きても、カカシならコピーした千以上の術で、都合よく事を収めることなど容易いだろう。表面上はこのチームが完璧な任務をこなしたという記録を残すことも難しくはない。
 けれどイルカの中にはこの酷い任務の思い出が残るのだ。
部下を人とも思わない最低な上忍の記憶とともに。
 夜の眷属のように、音も無く闇の中を走れると言うのに、爪の先程の些細な事も思い通りにならない。
 夜の湿った風がカカシの頬を撫でていく。その感触の気味悪さにカカシは首を振った。
 つまらない。カカシがイルカの隣に立つことが自然の摂理に反しているように、この世では意図的に彼に関わる事は出来ないようになっているのかもしれない。
 触れられない相手なら、いっそカカシが手を出せない世界へ行って欲しかった。急な斜面を滑り落ちてしまえば、底に着くまで自分で止まる事もできない。今夜が始まりの日だった。そうなって欲しかった。
 詰が甘いばかりに、イルカはカカシの思惑と違う行動をとった。何が何でも任務を遣り遂げろと説得もせずに、美野屋へ放りこんだだけでカカシは逃げた。
 最初から必要以上に嫌われるのを避けようとした自分は愚かとしか言いようがない。これでまた明日から、もっとカカシにとって辛い日々が始まるのだ。
 ヒュッ。
 聞き逃しそうな僅かな羽音が耳の横をかすめ、カカシは目をむいた。振り向けば大きな影が空中を旋回している。咄嗟に差し出したカカシの左腕に影が舞い降りた。
「ツルギさんの…」
「久しいな、カカシ。ツルギから言付けを預かってきた」
「シロカゼ、元気そうだね」
「あぁ、お前もな」
 大きな丸い目がカカシを見詰める。彼はツルギが遣う忍鳥で、翼を広げると人の背丈ほどもある白い羽毛を持ったフクロウだった。
「小屋に戻っているお前の代わりに部下を見回った。分身を置いてお前と同じように屋敷を抜け出している者が一人。後のことは目を光らせておくので任せろ、だそうだ」
「…あぁ、すまない」
「少し前に小屋に戻った人間がいるだろう。黒い尾っぽを持った奴が俺の仲間が見ているのにも気づかずに、枝の下を通り抜けて行った」
「その通りだ、一人小屋に戻ってきた」
「それならば問題ないな。俺は見張りに戻る」
 フクロウはそういい残すとふわりと羽を広げ再び僅かな羽音とともに数回羽ばたいただけで闇に消えた。
「ハハ…」
 息が抜けるような笑い声がカカシから出た。
 ツルギはカカシの代わりに頼まれもしない任務を買って出てくれたらしい。カカシはすることがなくなった。
ツルギが防げない事なら、きっとカカシでも同じく手を焼く。美野屋にわざわざ向かう理由はなくなったのだ。だからと言って、今飛び出してきたばかりのイルカがいる小屋へも戻り難い。
 どちらへつま先を向ければいいのか、一向に答えが出てこず、カカシは呆然となった。
 鋭い嘴と嗅ぎ爪をもった捕食者が去ったせいか、カカシの周りでなりを潜めていた虫達が一斉に鳴き始めた。昼間の蝉に負けないようなジージーという耳障りな声がすぐ近くでした。



 

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(2012.07.24)




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