夏の夜の夢5


カカシが番をして座っている草陰にも時折ひんやりとした風が吹いてくる。昼はまだまだ暑いものの夜にはあちこちに秋が入り込んでいる。
 一日目の野営は、なんの障害もないまま予定通りの場所で出来た。メンバーが横になっている窪地から少し離れたところでカカシは寝ずの番をしていた。
 人里から遠く、大型の獣が生息している為、この辺りで野営をする時は見張りを立てることになっていた。カカシ一人なら忍犬を呼び出すが、明日にも着く夏の里の任務では自分以外の三人が主な役を担う。自分はお守役でしかない。後ろめたさからよい眠りが訪れない予感もあって、今夜くらい働いておこうという気になった。
 茫々と茂る草の上に、いつから居たのか枯れた草の色をした一匹の虫が、羽をつい立のように立ち上がらせじっとしていた。
 カカシが察して意識をあらぬ方へやると、やがて凛と立てたその羽を震わせて虫は高らかに鳴いた。その独特なリズムにこの小さな虫が松虫と分かる。

「昔はこの松虫のことを鈴虫と言った」

 以前蟲遣いである油目の人間とチームを組んで任務に当たった時にその話を聞いた。
 彼によると昔は草原を住処とし、小さな鈴が転がるように鳴く今カカシの目の前にいる虫が鈴虫と呼ばれ、現在鈴虫と呼ばれている黒い虫が松虫と呼ばれていた。古い書物に書かれた解釈の違いや、土地によって逆の呼び方をした等諸説あるが、どちらにしろ美しい音色である。
 長い任務に出る折、木ノ葉の大人達はまだ若いカカシに夜毎に様々な話を聞かせてくれた。二親は早くに逝き、アカデミーにも通わぬまま任務に明け暮れる子供を不憫に思ったのかもしれない。
 他の人間には面白みのない話でも、忍と関係ない教えを受けた事がないカカシには楽しい時間だった。
 鈴虫の遠くまで響く鳴き声と、松虫のはかない鳴き声は、今も昔も人の心を魅了する。林が近いこの場所からは、鈴虫の声も聞こえた。何重にも重なって聞こえてくるその声は、一人見張り番をしているカカシの心の深い所へ落ちてくる。普段なら任務中に無にしているはずの意識が、穏やかな波にようにカカシの中で揺れていた。
 火の国の古い土地では、この鈴虫の古い名が付けられた「松虫」という謡曲がある。若い男の亡霊が、松虫の鳴く声に友を偲んで夜な夜な姿を現し、最期に心ある人達の回向によって救われる物語だ。
 虫についてはどんなことも知っている油目の男がついでに話してくれた。一緒に話を聞いていた仲間の中には、思うところがあるのか涙ぐむものさえいた。物語の中の二人は生きている内に、互いに何ものにも代え難い心で結ばれていた。そして、その友はある晩男が目を離した隙に儚くなっていた。男は彼の後を追って自害し、やがて化けて出るようになる。人の妄執。十代の頃のカカシはそこのところが全く理解できなかった。
 失ったものを哀しむ気持ちは分かるが、心を交わした以上に彼は何を求めるのだろうか。
 もともと生まれた里の生業のせいで死に触れることが多い。だから死んだ人間が物理的に生者に対して害をなすことが無い事も知っている。死後も発動させることができる忍術を操る者もごく僅かだ。
 だが全く忍術の介在しない世界で、松虫のように亡者が現れ人々に訴えかける物語は多い。そのような美しくも儚い話を人々は好む。
 当時子供だったカカシは随分首を傾げたものだが、今のなら少し分かる。亡者というのは残された人の情念が形になったもの。友は決して男より先に死んではいけなかった。どんなことがあっても一人で逝ってしまってはいけなかったのだ。そんな叶わない望みを抱く、人というのは哀しい生き物なのだとカカシはようやく知った。
 人の世はそれほど儚く、ままならぬもの。今、行き場のない想いがカカシの心の中にある。
 生と死の狭間を幾度となく掻い潜って来たこの身にとって、叶わぬ想いが身を焼くほどに苦しいと認めることは敗北に等しい。けれどその想いに目を背け、逃げ出すことも結局は同じだ。
 この己の葛藤に勝つ方法は一つだけだとカカシは分かっている。かの人の背を幸せに向かって押してやることだ。
「カカシさん」
 声の主は休んでいるはずのイルカだった。カカシが振り返ると、今起きたとは思えないほどしっかりとした足取りでこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「見張りの交代をします」
「あなたの時間まで、まだ随分ありませんか?」
 時計代わりに見上げた小さな星の傾きがその時刻を知らせる。カカシが交代する頃には、蠍座はすっかり地の向こうへ沈んでいるはずだ。
 イルカの出現に一瞬だけ鳴り止んでいた虫の声が、再び勢いを取り戻した。
「虫の声が凄いですね。顔の横に飛んできてチリリンとやられてしまって、目が覚めてしまいました」
 イルカが顔をしかめてむず痒そうに耳元を手の平で払った。
「自分もあの二人に倣って、虫除けの札出しておくべきでしたよ」
「綺麗な音色だけど、側で聞くと大きな音ですからね」
 カカシが立ち上がらないので、イルカは何気なく側まで来て膝を折った。
 夜気に微かな湿り気がある。そのせいで余計元気が出るのか、虫たちは人間に気後れすることなく精一杯鳴いていた。
 捕食者に見つかる危険を避けるより、番いを求めて生を謳歌することが優先だと本能に刻まれているのかもしれない。少し羨ましさを覚えながら、カカシは夜目にも白いイルカの横顔を眺めた。
「ま、明日には着く夏の里での任務はキツイものではないけれど、無茶はよくありません。正規の交代の時間まで少しでも横になって居た方がいいですよ」
 イルカは困ったような顔をしてこの場を去ろうとしない。だからと言って話しかけてくるでもなく黙っている。カカシは仕方なく言った。
「…ならせめてこの樹に凭れ掛かって、少しでもいいから目を瞑ってなさい」
 カカシは自分が背中を預けている大きな黄檗の樹を指した。樹上はこんもりと繁り、幹周りは一mを超えている。イルカは樹の幹をなで、カカシの左側に回りこんで腰を下した。
「…立派な黄檗ですね。医療部の連中に見つかったら、皮を剥いで丸裸にされそうだ」
「ええ、可哀相だから内緒ですよ。彼らは使命に忠実ですから、躊躇なく毟りに来ます」
「そりゃ災難です」
「うん、じゃあもう休んで」
「ハイ」  
 樹に凭れながら座りよい場所を見つけようとイルカが動く。その度彼の右ひじがカカシの左腕に微かに触れた。カカシは冷たい夜の空気を胸に深く吸い込んだ。
「すみません。お休みなさい」
 ひょっとして、イルカは自分を好いているのではないか。イルカがこうしてカカシの側にくることは、里に居た時もままあったのだ。今のようにただカカシの側に来る事が目的で、それ以上の理由を持たない子供が使うような言い訳をしてその場に残りたがった。質が悪い事に、カカシが最後には許すことを知っているのだ。
 何がイルカにそう思わせるのかはっきりしたことは分からないが、おそらくは出会いのごく始まりの頃に子供達の中忍試験絡んで、お互いの腹を見せ合ったからかもしれない。
 カカシを見かけると、当たり障りのない会話をふりながら、イルカがさりげなく近づいてくる。最初はナルト達に関して何でも知りたいからだろうと思っていたが、下忍達が自分の手を離れた後もイルカは変わらずカカシの近くに来ていることがあった。
 うぬぼれではなくそれが真実だと思ったのは、イルカの自分を見るその目が、遠い昔、自分を好きだと言ってくれた少女と同じだと気がついたからだ。
 そしてそれを分かった上でカカシは知らないフリをした。

 イルカの想いに気づいていると悟られてはならない。
 カカシが彼を想っていると知られてはならない―――
 どうせ駄目なのだから。

 優れた忍は、任務を百パーセントこなせることなどありえ無いと分かっている。せいぜい自分達が示せるのは最良の結果。依頼の内容に応じた結果を、上手に示す事こそが大事なのだ。
 人がとうてい出来ない事を代わりに担うというのは、ある種の危険を孕んでいる。金を積めばどんなことも忍という人でなしが解決してくれると、思い違いをする人間が現れる為だ。
 依頼内容の精査を行ってから正式に可と判断した物だけを受けるのが前提だが、巧妙な嘘を吐いてでも忍の力を利用しようとする人間が出て来てしまう。
 どこからどこまで手を出すのか細かな線引きは現場に赴いた忍に一任されている為に、カカシほどの任務経験を持つ者は、状況を知った段階でその達成度をほぼ間違いなく推測できる。あるいは決める。
 どんなに同情的な依頼でも、冷静な判断で始める前から切って捨てるように結果を言う事ができる。
 だからカカシの想いが成就することと、イルカにとっての本当の幸せが決して結びつかないということが痛いほどよく分かっていた。
 カカシと同じ樹にもたれるイルカから規則正しい寝息が聞こえる。本当に眠っているのかどうか分からない。リラックスしているだけかもしれないし、彼もまた一人の忍だからこんなに虫の声が騒がしい夜なら上手くカカシを欺くぐらいできるだろう。
 僅かに触れているイルカの腕からは仄かに体温が伝わってくる。すでに月は地平線の向こうに沈んでおり、代わりに夜空には降ってきそうなほどの沢山の星が輝いていた。

 こんな夜を二人で過ごすことができてよかった。
 そしてこの人がもっと、カカシが知るよりもっとズルイ人間であったのなら、
 何も惜しむことなく自分はきっと奪っていた―――

 カカシの見上げる夜空に小さな星が流れた。


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(2011.12.29)





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