夏の夜の夢7

 美野屋というのは、夏の里で栽培される薬草・生薬の売買を一手に扱う大店の屋号である。
「イチさん」
 カカシに呼ばれイルカが振り向いた。
 イチと言うのは里に入るために付けられたイルカの仮の名だった。祭りのしきたりとして、関わる者の名はすべて伏せられることになっている。
「次郎に三郎太も俺の許しが出るまで、あまり口を開かないでくださいよ。うっかり本名を悟られないように」
 日が傾きかけると、ツルギのいた小屋からカカシ達は今回の依頼人が待つ美野屋へ向かった。里の一番奥まった場所に街がある。そこへ向かうまで普通の旅人のように二本の足で歩いて行った。
 カカシ達の一行とは反対に街の中心から足早に外へ向かって去って行く人の数も多い。
 行く先から聞こえてくるのは、厳かに打ち鳴らす一張の太鼓の音だけで、祭りと呼ぶにはあまりに閑散としていて、イルカはキョロキョロと辺りを見回していたところだった。
 祭りというには静かすぎる街。仮の名を与えられる任務。イルカが不信を募らせ始めていることは見て取れた。そもそも中忍試験の折上忍に真っ向から意見する程の人間で、大人しい性格ではない。おかしいと思えば自分の判断で動くだけの度量を供えている。
「慌てることは無いからゆっくりいきましょう」
 カカシの呼び掛けに、はっとしたようにイルカが視線を前に戻した。
 騙している訳ではないが、気の毒だとカカシは思った。
仮の名を次郎と三郎太と付けられた二人の中忍と、イチの名を割り当てられたイルカは旧知の中である。真面目で誠実な中忍を五人上げろと言われれば、三人ともその数に入る。カカシを含め火影直々に人選されたメンバーの偏りは誰が見ても一目瞭然だった。
 そもそもこのチームには医療忍術を満足に使える者がいない。戦歴の長いカカシやアカデミーで子供達を見るイルカは多少心得があったが、臓器が深刻なダメージを受けた場合などはそれでは間に合わない。医療忍術のスペシャリストとして名を馳せた綱手が火影になってから、最低でも医療忍術の中級以上の遣い手をチームに入れるようになった。
 カカシとの任務に意気込みを感じていたイルカなら、過去に行われた夏の里の任務について調べていても不思議ではない。
 ただ記録からは毎年のように木ノ葉の忍が祭祀に貢献した事以外わからない。
 儀礼的な祭りで金銭が集まることもない。近隣に目立った遊興地もなく、自然の中で汗を流しながら働く以外に生計を立てることが許されないこの谷あいの里では、小悪党さえ流れてこない。懸念されるような危険性はほぼ皆無で、険しい道のりさえなければわざわざ忍が出向かずとも、里の物知りの文官達の方がよほど性に合う任務かもしれなかった。
 このような任務にフォーマンセルのチームが赴く必要があるのか。普段でも名指しで任務が殺到する上忍が隊長を勤める必要があるのか。表舞台に立つ事は少ないがその分内勤で存分に働きを見せ、木ノ葉の内情をよく知るイルカが、何も気づかない訳がないのだ。
 日が落ちる中、埃と汗に汚れた顔で明らかに一日の勤めを終え、疲れを見せながら家路を急ぐ人々の姿がある。
 街の中心部から歩いてくる人々を見てイルカがそれと分かるくらい首を傾げた。祭りは一般の里人が参加するものではないのだと気づいことだろう。
 いつ知らせればいいのか。
 これから祭りに参加すること自体がお前達の任務だと。
 説明の有無は隊長である者の裁量に任されている。どのような形であれ、最後にはこの祭りのきまりに則っとり、口を慎むことを約束させるのだ。
 カカシが連れている三人の青年は誰も皆、その顔つきは忍としてありながら欠片も粗野なところがない。瞳は知的な色を湛え、鍛え上げたしなやかかつ逞しい体つきをした彼らは、いかにも健全な若者である。
 それに引き換え自分が今からすることは女衒と変わらない。十年前この任務に何も知らないまま連れてこられたカカシが隊長に感じたことだ。厄落としだと言う者、素人女と遊べるなんて滅多にないと笑う者。金を出して女を買いはするが、これが任務だと思えばカカシは仲間が喜ぶ気が知れなかった。
 今ここにいる三人の中忍はきっと過去の自分と似たように思うだろう。ギリギリまで真相を知らせない方が親切だろうと思った。しかしその理由が、一秒でもイルカが傷つくのを遅らせたいという思いからくるような気がして、カカシはあきらめの悪い自分を情けなく感じた。
 今から祭りが行われるはずの街から去る人々。イルカがじっと目を凝らし、自分達とは逆方向へ進む里人の様子を盗み見て、そこに隠れている符号を読み取ろうとしているのがカカシには分かった。
 木ノ葉の忍として役目を果せばいいのだと言ったカカシの言葉を忠実に守り、ここまでは誰も余計な口を利かず、隊長からの命令を大人しく待ち続けていた。
 中にはどこかしら隊長の不興を買って、何も語ってもらえないと感じているメンバーもいるかもしれない。
 尚も黙っていると、とうとうイルカは途方に暮れた目をカカシに向けた。カカシはそれにさっと視線を寄越しただけで言った。
「堂々としていて下さい」
 顔を伏せたイルカの視線が流れる。そこには何も言わない上官に対しての非難の色があった。カカシは今更ながら、まるで苦いものを噛んだような気がした。
「イチさん、この里の薬草が高く取引される理由は知っていますよね」
 名を呼ばれイルカがカカシを見た。今しがたカカシを責めた視線がすでに無い事に、しまったと思った。他の二人のように仮の名であっても呼び捨て出来ていない。その違いにイルカも気づいたのだ。
 どんな任務に就いても、始まりから終わりまでぬかりなく包囲網を縮めるように確実に結果を得る事を信条としてきた自分が、無意識にでもこれだけは譲らなかったのだ。
「夏の里で作られた薬草はその効能が特に高いからです」
 自分自身に心の中で舌打ちをしている間に、イルカがカカシの脇に並んだ。
「薬効成分が高い時間帯が日の出前だそうですが、日が昇る前に、摘み時に成長した正確な部分だけを収穫する事を、この里では守っていると聞いています」
「ええそうです。その担い手は里の女性たちです。だから稀に見るような母系制の暮らしがこの里の根っこにあるんです。里の支配権も女性がほぼ握っているしね」
 カカシは次郎に、三郎太も覚えていてと付け足した。
「特に秘密になってはいませんが、この土地では女性に生まれついた者の多くが、暗闇で物を見る能力を持っていましてね、だから薬草を扱うのは女性達の仕事なんです」
「…夜目が利くということでしょうか」
 イルカが代表してその理由を尋ねた。
「忍として訓練された者には及びませんが、暗闇で作業をするには充分な程です。この資質はこの里の女性だけに発現するそうですよ」
「そのせいですね。それで、これだけ陽が落ちたにもかかわらず、どこにも灯が点されていないんですね」
 イルカがこの先にある夏の里の中心地に目を向けて言った。そこには沈みかけた太陽を背に街が黒々とした姿を見せていた。それはこの街が、夏の里の女達のために造られたことを意味していた。
 頑丈に作られた渋黒塗の板塀が街全体をぐるりと囲んでいる。大通りを足早に行きかう人々の手には提燈もない。
 街に入ってからカカシ達は終始無言で歩き続けた。やがて、延々とどこまでも続く棟続きの立派な建物に辿り着いた。
 一角に灯を入れられた軒行灯がぶら下っている。その表に鮮やかな墨の色で店の前が書かれていた。
 ひしめくように立っている家々の間を随分と長い間歩いて来たのに、その行灯以外は辺りに明かりは無く、それだけに白々しいような眩しさを感じさせた。すぐ脇には深い軒に隠れるようにして母屋の入り口がぽっかりと黒い口を開けている。
 大通りを行く人の姿は絶え、建物の中から聞こえてくる太鼓の音が無ければ、忍でさえも近寄りがたい雰囲気があった。カカシの後ろで誰かが唾を飲み込む音がした。
「もうし、木ノ葉の者です」
 すぐに美野屋の奉公人と思しき女が出てきて、カカシを含めた四名は建物の中に招き入れられた。
 女の案内で一同は奥へ進んだ。いくつもの部屋が、長く曲がりくねった廊下でつながっている。忍の目には点々と廊下の脇にかしづく女の姿が見えた。廊下に面してところどころに中庭が存在し、室内に明りがないために陽が落ちた今もそこだけが明るかった。たまに火の気を見つけても、それはあちこちに置かれた燻された薬草のような香りを発する香炉であった。
 よくもこんな暗闇でと、この里に来るは二度目であるのにカカシは思った。後ろに続く三人も驚いていることだろう。炎が人の暮らしに安全をもたらしたように、この里の人間は獣の如く闇に守られて生きているのだ。
 案内がなければ迷ってしまう迷路のような造りも用心の為だと言う。夏の里は働き手として女性が大切にされている為、仕事や相続する財産また伴侶の得られない男達は生まれた土地を去るしかなかった。結果として人口の比率が男女で著しく違っていた。
 焚き染められている香も思考力を鈍らせる成分が含まれている。一種の麻薬である。カカシは一人、道中手にしてきた気付け成分の含まれた樹の葉を、一枚口の奥で噛み締めていた。廊下を引き回され充分にその煙を吸い込んだところで、広間に通される算段になっている。忍と言えどおのずと限界があるのだ。
 ここまでするのは以前招待客の中によくない人間が紛れ、祭りが台無しにされたことを受けてのことらしい。やりすぎのような気がしたが、女たちがその身を守る為に灯を点けず毒草を使ってまで自衛しているのだ。それで招待客の男たちが御しやすくなれば、一石二鳥である。
 木ノ葉の里も火影に女性が就くなど男性が圧倒的に優勢という社会ではないが、性別による体力の差から忍の絶対数に開きがあるため、どうしても父系制に沿う形で歯車が回っていた。
 カカシ自身木ノ葉で育った為、また男として生まれて来た為、この不便さを思えば、夏の里に住む人間の考えが今一つ理解出来ないでいた。だが金で買われた以上自分達は仕事を終わらせなければならない。忍の技は全く必要とされないこんな任務は嫌いだった。
 夏の里の繁栄を約束する祭りに、各地から集められる招待客は男性のみ。夏の里の女達が主役となるこの祭りに、それに見合った男達が用意された。
 後ろに続くイルカ達はこの後、任務に課せられた事実を知るだろう。子種を運ぶだけの人間として、うかうかとるつぼに落とされ、望みもしないのに溶け合わされてしまうということを。
 神事として守られてきた祭りは秘密厳守が約束事だったが、過去に客として出向いた木ノ葉の忍の中にさえ、口が軽いものも居れば、逆に耳の早いものもいる。結果、知る限り嬉々としてこの任務に臨む者もいた。
 求められているのは玄人でない女と交わる事だけで、その後は子供が出来ようがどうなろうが責任は問われない。仮に夏の里の女から子供の父親と名指しされても、拒否することも許されていた。少なくとも、今回のメンバーはカカシ以外そんな心ない事を出来る人間はいないだろう。
 この任務を再び振られ、単純に喜ぶ輩のように割り切れない自分は、男としてあるいは不幸なのかもしれないとカカシは思った。
 そしてそんな任務にイルカを連れてきたのが自分だと思うと、カカシは今頃になって心の中に寒々としたものを感じた。
 

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(2012.03.18)




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