大喧嘩
タイミングが悪かっただけ。こんな時、人は魔が差したのだと言う。 だが、前言は撤回しないし、折れたりしない。それが男の意地だ。 たとえ別れる事になっても。 雨の多い季節、アカデミーの中庭に雑草の姿が目立つようになった。三週間近く前に、この学校にただ一人の用務員が体調を崩して入院したのだ。 彼の正確な歳は知られていないが、皺の多い容貌のせいでかなり老けて見えた。 忍を引退したという男は言わば教師達の先輩にあたる。しかし、アカデミーではイルカ以外に彼と口をきく人間は滅多にいなかった。男が気難しい性格をしていたこともある。 彼が仕事を休まざる事情に陥ったのは誰のせいでもないが、用務員の仕事が滞ると新たな人を雇う必要が出てくる。そうなると、彼は解雇されるだろう。 (あの歳で、次の仕事探すのも大変だ……) 戻って来た時に彼の仕事が無くなっているのでは、あまりに気の毒だとイルカは思った。 それからというもの、イルカは己の仕事の合間に、トイレットペーパーの補充、蛇口の水漏れ修理等、こまごました雑務を気前よく引き受ける事にした。 だが、用務員不在という事情を知っていながら手を貸してくれる人間はいない。 毎日驚く程伸びていく中庭の雑草に目を瞑り続けていた。草刈りや植木の手入れも用務員の仕事のだった。今の仕事が済んで手が空いたら、もっと見苦しくなる前になんとかカタをつけなくてはならない。イルカは日ごとに焦りにも似た苛立も募らせていた。 イルカはアカデミーで担任を受け持つ傍ら、受付業務もこなしている。それに加えて用務員の仕事を肩代わりしている事になる。 明らかにオーバーワークで、イルカの若い身体にも疲れが残るようになってきた。 仲間は誰も手をかしてくれないが、イルカが勝手にしている事なので、本来は誰も責められる立場に無い。 この中で唯一の救いは、お付き合いしている相手も任務がたて込んでいて、このところ会う時間がない事だった。 その恋人がほとんど入り浸っているイルカのアパートで、久しぶりの独り暮らしを満喫する。 すなわち、掃除からはじまり、洗濯、買い物に料理と手を抜き放題だった。 互いに仕事を持つ身で、こともあろうにイルカの相手は年上の男性である為に、なんとなくそういう役割分担が出来上がってしまっているのだが、それも仕方の無い事だった。 なにしろ相手は名うての上忍だ。木ノ葉では下にも置けないような人物なのだ。 だから、彼がイルカの恋人であると本気で思っている人間は少ない。 余計な詮索もされない代わりに、それは恋人であるはたけカカシが、それほどイルカには不釣り合いな相手だと言う事の証明でもあった。 女泣かせの色男が、気を許すのもイルカが凡庸な中忍だからこそだろうと、多くの人間が思っている。 イルカの傍らに立つ上忍は、少年の様に伸びやかな表情を見せた。 それでまた、女性達の中ではたけカカシの株が上がったのだが、そうさせているのがイルカだという事を気づいているのは、カカシとカカシをよく知る人間くらいだった。 今日はカカシが短期の任務を終わらせて里に帰ってくる。 もう家に戻っているだろう。 イルカはため息をつきながら暗い夜道を歩いていた。 手には食材の入ったずっしりと重みのあるビニール袋が一つ。重さで伸びきった持ち手部分がイルカの指にくいこむ。 こんなことなら、昨日の内に買い物を済ませておけば良かったと後悔した。 けれど昨日は草むしりに精を出しすぎて腰が痛く、アカデミーを出る頃にはぐったりしていた。広い中庭の分を一日で終わらせようとか、無謀過ぎたのかもしれない。あと少しあと少しと範囲を広げているうちに、夜になっていた。 予定ではカカシが帰って来るが、明日の事は朝陽が上ってからその時に決めると事にして、買い物もせずさっさと帰って休んだのだ。 今日という日も、イルカは終業後に生徒が壊した便所の洗浄管の取替え作業をするはめになった。余計な作業のせいで、予定の時間が延び、遅くまで開いている食品店に寄る為に、随分遠回りして帰って来た。 もう身体がクタクタだ。 明日の授業の用意をするとすれば、カカシが眠ってから行うしかなかったが、仕方が無かった。 それでも腹をすかせているはずのカカシの顔を思い浮かべて、イルカは夜道を急いだ。 はたけカカシは食事の支度が出来ないわけではない。食事に文句も付けないし、それに男であるイルカがそこまで心配りして、三食用意してやるのもどうかと思う時がある。 だが、カカシは食事というのは特に楽しい物ではなく、ただの栄養補給ととらえている節があるのだった。 だから近頃アカデミーで話題にされている食育もかねて、積極的にイルカが働きかけている。 食事に関心が無いというのも変だが、味の善し悪しは分かるのに、その事に特別な興味も無い。 カカシが食べるのが異常に早いというのも、そのせいかとイルカは思う。 過去にカカシが台所に立ってくれた事がある。しかし、無表情に包丁を使いフライパンを振る姿が、イルカには理解し難い恐ろしいものに見えた。 生で食べ難いものに火を通す事で、人類の栄養事情は飛躍的に変わったが、カカシの台所に立つ姿はそれのみを追求したような動きだった。 時間は最小限、調味料も最小限、無駄な動きの無いそれは、まるでクナイなどの得物を無心に手入れしている姿をイルカに連想させた。 作ってくれた野菜炒めはおいしかったが、最後まで食事をしている気分にならなかった。 少なくともイルカの母はそれなりに楽しそうにしていた。料理は愛情だと思ってきただけにショックだった。 それから三日ほど腹具合が良く無かったのは、食事に当たったのではなく、全く精神的なものからだった。 それ以後、食事に関する事はイルカが一手に引き受けるようになった。 カカシはゆっくりと食事を楽しむ環境に、長く居た事が無いのかもしれない。気の毒だと思う。大人になってから、その習慣と考え方を改めるのは難しいかもしれないが、食事は楽しい事なのだということを教えて上げたい。 エリートと呼ばれる上忍と平凡な中忍の差は、こんなところにも影を落としているのかとしみじみ感じるイルカだった。 路地から見上げたイルカのアパートの部屋から、蛍光灯の明かりが漏れている。カカシが帰っている。玉ねぎが幅をとっているビニール袋を持ち直して、イルカは鉄製の階段を上がった。 一段一段上がってみるが、この若さで足が重い。大好きなカカシが帰って来ているというのに、疲れた顔を見せるのが嫌だと思った。カカシは優しい人だから、イルカの事情を知れば労ってくれる人だ。そんな気遣いはさせたくない。 気合いを入れ直し、鍵を外そうと玄関の外でもたついていると、扉が開いた。 「おかえりなさい、カカシさん」 イルカが先に声を上げた。思わず満面の笑みがこぼれる。 「ただいま」 そう言って、カカシは満足そうに目を細めた。 「イルカ先生こそ、お疲れさまでした」 カカシに続いて玄関戸をくぐり抜けると、イルカはひょいと居間の方へ視線を走らせた。 卓袱台の上にはビール缶が一本立っているだけで、他に何も無い。 「カカシさんお腹すいてるでしょう、シャワーを浴びてすぐに支度しますね」 「ゆっくりでいいですよ」 イルカはその声を聞きながら、ベストをぬぎ浴室に急いだ。今日は便所の個室に籠って外れた洗浄管の取り替え作業をしたのだ。汚れたわけではないが、湯を浴びてから、食事の支度をしたかった。 カカシの言葉に甘えることもせず、イルカは素早くシャワーを浴び終え、すぐに炊事にとりかかった。 タオルを首に掛けたままで動き回るイルカに、カカシが後ろから近づき、おもむろに濡れた髪を拭いてくれた。 「髪の毛、俺がするね」 「ハイ」 優しいカカシに、イルカもつい甘えたくなり、素直に返事を返す。 流し台に立つイルカが右に動けば右に、左に動けば同じようにカカシがついて髪を拭ってくれる。 大方水分が取れた所で、カカシがゆっくりとイルカの肩に手を乗せ、後ろから首筋に鼻を押し当てて、息を吸い込んだ。しばらくして満足そうに息を吐き、カカシはそこへ小さなキスを残して離れて行った。 頬を赤らめたイルカがもう少し待って下さいねと言うと「はぁい」と返された。 かつてイルカに彼女が居た時に、したくても出来なかった行動を、カカシがすべてかそれ以上にして見せてくれる。 カカシが男でも女でも、イルカは本当に彼の事を好きだと思った。 乾ききってない髪をまとめてとりあえず結んで、イルカは鍋に水を張った。 不経済だが、今日は一人前分の白飯も買ってきた。この店の米は美味しいので、安心してカカシに出せる。自分の分は冷凍庫に入っているのを解凍すればよく、イルカは本腰を入れて夕飯を作り始めた。 玉ねぎを刻むと甘辛い煮汁の中に放り込んで、しめじと、豆腐と最後に牛肉の細切れを加えて牛丼ならぬ牛皿らしきものをこしらえた。同時に茄子と油揚げを入れたみそ汁を作った。 カカシと付き合うようになって料理のスピードが上がったが、今夜はその中でも最速だったように思う。カカシにとって久しぶりの里での夕餉としてすこししょぼい気もするが、もう夜も遅いので許してもらおうと思う。 カカシは一旦居間に戻ったものの、戻って来ていつものようにウロウロとイルカの後ろで手元を覗いたりした。ふとイルカと目が合うと笑う。格好良くて、かわいいカカシ。 以前、一人居間で待つのが嫌だと口にした事がある人だ。イルカはそんなカカシを見るのが好きだ。それは、イルカだけが知るカカシだ。 「いただきます」 どうぞと言って箸を渡すと、カカシはみそ汁をすすって破顔し、おかずをつつき始めた。 この汁に卵を落としてきましょうかとイルカが尋ねるとカカシは首を振った。 みそ汁を半分飲んだ辺りから、動きが遅くなっている。カカシの顔はなんだかとても疲れているようで、食が進まないようだ。 ごはんを先によそおいますかとイルカが尋ねると、実は食べて来たのだという返事だった。 「もう随分時間がたつし、いける気がしたんですが……」 カカシが申し訳なさそうに言う。 カカシは腹が一杯になるのを嫌うたちで、食べ過ぎるという事がない。どんなご馳走が並べてあっても、絶対に決めた量以上のものを食べない。カカシの体臭が薄いのはそんな理由からではないかとイルカは思っている。 「それじゃ、残した分は明日の朝にでも回しましょう」 イルカはそう言って、自分の夕飯に集中する事にした。カカシは朝食にあっさりしたものしか好まないので、きっと自分が食べる事になる。 先程までの幸せな気持ちは偽物ではないが、今日一番の疲れを感じた瞬間だった。 続きます →2へ (2013.8.3) |