大喧嘩2





「ごめんね、イルカ先生」

「いや、傷むもんじゃないですし」

いい塩梅に煮上がった焼き豆腐を頬張りながら、イルカはお腹が満たされて行く心地よさに、気持ちを切り替えた。
準備万端でカカシの帰りを待っていた身ではないし、イルカ一人分の夕食のついでなのだからと、思い直した。

横目でこちらを伺うカカシが、外食の訳を話した。

「今日はね、大門を潜った所で昔任務でよく組んだ奴と出くわしました。話し込んでいるうちに相談があるというので、飲みがてら聞いてきたんですよ。本当はアナタにすぐに会いたかったけれど、そんな事を奴に言われたのも初めてだったから」

カカシがすまなさそうにこちらを見た。イルカが微笑み返すと、ホッとした顔をした。


「任務以外で相談を持ちかけてくるような奴じゃなかったし」
「そうですか。そういう事なら、きっと俺も同じようにしましたよ」

イルカは、沢庵を口に放り込んで頷いた。一人食べながら話を聞くより、さっさとすませてカカシに向き合いたい。

牛皿にしてあったが、結局はイルカの愛用している大きなご飯茶碗におかずを汁ごと全て乗せて牛丼になっていた。
最後に残った汁だくのご飯を、お茶漬けの様にかき込むというクライマックスに差し掛かっている。

もぐもぐと口いっぱいに頬張り、最後に「ああ美味しかった」と手を合わせた。特段、食べなかったカカシに嫌みを言ったわけではない。
しかし、カカシは何か感じたのか、今日イルカの手料理を辞退した原因となった『相談』について語り出した。



「煮詰まってたんでしょうねぇ、他人に相談するくらい」

感心しているような口ぶりだった。
過去に任務でよく組んだというならば、おそらくは暗部上がりか、現役暗部なのだとイルカは思った。

「恋の話だったから」
驚いたのだとカカシは言った。

「まぁ、それで一杯のつもりが、一緒に飯まで食うはめになって。俺もお前と同じ身の上だと話してやったら、きっと奴も驚いた事でしょうが」
そう言われて、イルカはくすぐったい気持ちになった。



相談をしてきた男には二年越しの恋人が居た。真剣に好き合い、いずれ彼女と所帯を持つつもりだったそうだ。

「それがつい」
聞けば、男が任務に行った先は、地の果てだった。まともに行って帰ってくるだけで二月かかる。命からがら任務を完了させた後、昂る血を押さえきれず、女郎屋もない土地だった事もあって、春を鬻ぐ女を探し出して買った。男は女を手に入れると、汚いあばら屋で丸二日間過ごした。

それで話が済めばよかったのだが、男はその地で虫を媒介とする風土病に罹ったのだった。感染力は弱いが、人から人へ染つる病だ。

この風土病をばらまくのは大きな虫で刺されると痛みがあるという話だが、刺し傷も刺された跡も無く、そこから結論を導き出すと、どうやら男は買った女から染つされたということになる。

それが、男を診察した木ノ葉の医師の診断だった。ただ、この風土病は的確な治療を施せば問題ない。

里に戻った足で、怪我の治療と精密検査の為として入院した。だが、個室を与えられたところで男の運が尽きた。

「彼女が触れたがって」

空気感染はしないが、患者の体液から伝染する。
二度目に断りを入れた所で、彼女が勘づいたという。三ヶ月会えなかった若い恋人がキスさえも拒むとなれば、何があったのかは、くノ一でなくとも気づくだろう。

それからというもの二人の関係は一遍にギクシャクしはじめた。
表立って責められる事はないが、彼女は自分といるとほとんど黙ったままで、笑ってもくれない。そうして三週間が過ぎる。泣いているような背中しか見せてくれない。彼女とは任務で里を出る以外に毎日のように一緒に過ごしていたが、もうこの関係は限界かもしれなかった。



「俺はどうしたらいいんだ?」
どんな窮地に陥ろうと顔色一つ変えない勇猛さで知られる男が、蚊の鳴くような声で言った。





それは、よくある話だった。忍としてこういった経験をせずに済む男が、一体どれだけいるだろう。

「事の顛末を伝えて謝罪したそうですが、一晩中泣かれたって。それからどうにも上手く行かないらしくて」

イルカは悲壮な面持ちで聞いた。
よくある話だが、誰も味わいたく無い経験だ。相談されたカカシも遣り切れなかった事だろう。真に好きな相手がいる身として、男の気持ちは嫌という程分かる。


「どちらも気の毒な話ですが」

カカシはビールの缶を持ったまま、遠くを見つめていた。

「『覆水盆に返らず』という言葉がありますね。―――どうやっても前みたいな関係に戻れそうに無いなら、二人でいたずらに時間を過ごすより、長い目で見て、いっそ別れてやった方が彼女にとっても幸せじゃないかと―――、俺ならそう思うと言ってやりました」

 
(……え……!?そ、そんな……!)

イルカは他人事ながらカカシの言葉を聞いて、背中に冷たいものを感じた。

「女性はこういった事は忘れません、結局いくら謝ってもずっと恨みに思って、相手を許さない―――」

身に覚えがあるのだろう、カカシは渋い顔をしている。

「不思議ですね。男というものは心底惚れた相手の事なら、過ちも全部愛せる生き物なのに。相手の女は、いったいどれだけ身綺麗なんですかね」

「……はぁ」

過ちなぞ覚えの無いイルカだが身が竦む思いがした。
カカシから漂う気配がなぜか、少し不機嫌なものに変わって来ている。

「そもそもこれは浮気でもない遊びでもない。むしろ任務の範疇に入る事です。奴は忍びです。それも、あまり性質のいいとはいえない仕事を請け負う。酷な話ですが、そういった事も含めて男のすべてを許容出来ないのなら、相手がたとえくノ一でなくとも夫婦として一緒にやっていけませんよ」

凄惨な任務に就くことが多い忍こそ、闇も深い。

「最後には、忍としての生き方をとるか、彼女をとるかの選択だと言ってやりました。……イルカ先生だったらどうします?」
(だ、誰の立場で?男?彼女?それともカカシさんの立場で?)

一瞬目が点になったイルカだが、第三者的な立場の意見を求められているのだろうと思った。
カカシの言う事も一理あるとは思うが、彼の知り合いでもないイルカが敢えてカカシの反対意見をいうもの気が引ける。だが、他にも方法があると思う。
愛し合う二人に別れる道を示すのは酷だ。

「……その方の事をよく知りませんし恋愛経験も少ないから、月並みな事しか言えませんが―――」

カカシはイルカの返答を待って期待を籠めた目を向けてくる。

「あ、相手の女性がもういいと言ってくれる迄、謝ってみたらどうでしょう……」

一度や二度ではない、彼女の事を思いやるなら、謝り倒すべきだ。

カカシの眉が意外な事を言われたように上がった。

「謝る―――…?彼女の方はどうでも許す気がないのに?」

「ええ、まぁそれでも将来を誓うほどの恋人ですから、きちんと謝ることは大事だと思います」

カカシの眉間がわずかに寄ったのを見過ごさなかった。やはりイルカの答えに納得できないようだ。
いつもなら、貴方のそういうまっすぐな考え方が好きだとすぐに言葉に乗せてくれるのに、こういった事に対する考え方はカカシとは違うのかもしれない。

「そうですかねぇ、無駄な事を続けるのに意味があります?一度はちゃんと謝ったそうですよ?」

どうやらイルカの意見は、別案として受け入れる気はないようだ。真面目に思った事を口にしたが、とても居心地が悪い。イルカの意見には続きがあるのだ。先に否定されると、言いづらい。

「……無駄じゃないですよ。これは許す許さないの問題じゃありませんし、謝るという行為そのものが重要なんです」

カカシがこちらに分かるように首を傾げている。

「傷付いたのは彼女の心ですから、今すぐ許して貰えなくても、頭を下げて詫びることで後々二人の関係は違ってくると思いますよ」

「どうしてそんな女の味方をするの?」

カカシは眉をしかめている。整ったクールな顔立ちの男だから、そういう表情をされると普通なら近寄りがたいくらいの怖い表情になる。

「別に女性の肩を持ってるわけじゃありませんよ……」

考えても見ろ。その任務を請負って、女を抱いたのが仮にカカシだったとしたらイルカとて許せない。
頭にきて詰め寄るくらいはやるかもしれない。上忍相手に、手だって出すかもしれない。
彼女が一晩中泣いたのは、くノ一として理屈が分かるからこそ恋人を責めることもできないし、持って行きようがない感情を持て余しての事だ。それくらい相手が好きなのだ。

任務に出たカカシが、昂りを押さえきれずに他人で発散させるとしたら、男のイルカでさえ、頭では分かっていても気持ちの上ではやはり許せない。恋人は俺だと叫んでしまうだろう。
無事の帰還を喜ぶどころか、いつまでも頭の隅で他人と肌を合わせるカカシを想像しつづけてしまうだろう。
気持ちが簡単にコントロールできるものなら、人々の関係はもっと穏やかで、人間は失敗を思い出して泣いたりしない生き物になれるはずだ。

そこまで熱く考えてはっとした。イルカは抱かれる側の人間だから、同じように女の気持ちに酷く共感してしまっているのではないかということに気づいた。何とも言えない苦い気持ちが広がる。


「だって浮気じゃないでしょうに。そいつは特別悪い事をしたわけじゃないよ。恨むべきは過酷な任務であって、男の方じゃない、好きでしたことじゃありません―――…」

カカシの声が小さくなっていき、彼がイルカよりもずっと地獄を見て来たことを思った。

「そうかもしれませんね……」

うつむいているカカシの、銀色のつむじをイルカは見つめた。

「了見の狭い女です。……赦しを請わせようって、男の方がプライドを捨てて、謝るばかりじゃおかしいでしょう」

イルカはもはや、どちらの味方なのか分からない気持ちになっていた。

「で、でも……結果として彼女を傷つけましたよ」

カカシが大きくため息を吐いた。

「近頃の女は忍を恋人に持つ事に覚悟がなさすぎます。これは、その男が木ノ葉の為に身を粉にして働いた結果ですよ。腹を立てるなんて、里に楯突くのと同じ行為だと気づくべきです」

里の事を出されたらイルカは黙るしか無い。

イルカは元生徒の中忍試験時にカカシに反対意見を述べたことがあった。
あの時彼らの上忍師であるカカシに『口出し無用!』と一蹴された事を忘れていない。
今の言葉で、全身に冷たい水を浴びせられたように感じた、あの時の気持ちを思い出した。

幼少の頃から忍となる者は上級の人間に悉く頭を押さえつけられて来た経験を持つ。だからそのような居丈高な物言いに瞬時に反発を覚えるが、中には一足飛びに上忍に駆け上がる者も居て、彼らはそういった下積みの苦労を知らない分言葉を選ばない。
だが、正しいことは正しいのだ。
カカシに監督権がある立場の下忍に対し、イルカが口を挟む道理はない。それはカカシの立場をないがしろにするという事で、カカシを上忍師に指名した火影の立場をも危うくする行為だった。
確かに、イルカの考えには甘えがあったし、カカシは厳しいが、優しい面も持っている。
そうでなければ、あれからカカシとこんな風に恋人関係になるはずもなかった。

優秀で尊敬できる忍。それを呪文のように心の中で唱えた。
(俺たちの間の話じゃない……)
喧嘩してもつまらない。
イルカは言い返したいのを我慢して、汚れた食器を持ち上げると流しに向かった。ここで我慢しなければ、カカシとの無用な問答が続くだろう。あくまでも他人の事だ。

「こういう時、女には男の気持ちを分かって貰えないものだなと、つくづく思いますよ」

(……しつこいな)

イルカが背を向けたのにも拘らず、今日のカカシは問答のような会話を続けてくる。

(俺の気持ちも分かってないだろ……)

飲んで来たと言ったが、酔いを顔に出さないカカシでも任務帰りの身体に酒が回っているのかもしれない。

「アイツには悪いけど、俺の恋人はイルカ先生がだから、間違ってもこんな苦労はしなくて済むし」

(……!)

イルカはいつか見たオカルト映画の様に、凄い形相で首だけが後ろを向く自分の姿を想像した。

「……彼女が傷付いた理由が分からないなら、別れて上げるべきでしょうね」
「そうだね、よく考えればそもそも傷付く道理も無い……ぁ……?」

カカシが変な声をあげた。
イルカから乱暴な扱いを受け、がちゃんと茶碗が鳴る。
常日頃節約を心がけているのだが、先程から水道の蛇口は緩んだままジャージャーと音を立てている。頭に血が上って、イルカは茶碗の洗い方を忘れてしまった。

「謝ったそうですけど、話を聞いていると、口先だけで本心からじゃない。……女の人は勘が鋭いから、男の気持ちなんて手に取るように分かるんじゃないですか?」

イルカから硬い声が上がった。

「……いっぱしのくノ一が、今更その程度の事で傷付いたりしますか。ただ怒りが収まらないから執念深く嫌がらせみたいにいじいじした姿を見せつけてくるんでしょう」

イルカの声の大きさにつられて、カカシも隣の部屋から大きな声で返してくる。
今日のカカシは頑としてイルカの意見を聞き入れない。最初から自分の決めた答えがあるのなら、嘘でもイルカはどう思うかなんて、聞いたりしなければ良かったのだ。

「それは仕方ないんです、女の人には男の辛い生理現象が分からないから、どうしても許せないんです」

「ホラ、だから女には男の気持ちがわからないと、そう俺はさっきから口にしてるじゃないですか」

厳しい事は口にするが、カカシは話の分からない男ではない。必ず筋の通った、イルカに敵わないような広い視野で話をする人なのに、今日のカカシは小さい男にしか見えない。
イルカはまるで本当に自分が女のような気持ちになった。

「彼女にしてみれば、裏切られたと思って傷付いているんですよ。……頭で分かっていたって、恋人に自分との繋がりを否定されたと感じるんですよ」

はぁ、とカカシのため息が、また聞こえた。

「そんなの女の勝手でしょ。裏切ったなんて言いがかりです。媚薬成分の効いた毒にやられる事だってあるよ、その時はどうする?マスかいて我慢しろって言うわけ?男が我慢出来ない生き物だって、イルカ先生だって分かってるでしょ!」

二本目のビールの缶を片手にしたカカシが戸口に立っていた。

「だから、そうじゃなくて―――!裏切ったと誤解をさせた事が悪いんです。今回は男性の方が心ない事をしたのが先です。百歩譲ってカカシさんの相談相手に罪がなくとも、恋人にちゃんと謝るべきです!心から謝って、別れる別れないはその後です!」

カカシは安易に別れろと告げたらしいが、それでは女性があまりに憐れだ。

「相手の男が浮気をするという事は、自分との関係が終わっても良いと考えているに違いない―――女性はそういう風に取るんです。そんなつもりはないなんて言われたって、気持ちが追いつかないんです」

抱き合うとはそういう意味だ。明日も明後日も未来が続く限り、アナタとの関係を続けたいという気持ちだ。
イルカは少なくともそう思っている。だが、カカシは、彼女の恋人と同じような行動をとっても平気でいられるのだ。

イルカは肩越しに振り返ってカカシを見た。眉間に皺が寄っているのはもうどうしようもない。


「……女なんてメンドクさいな……」

綺麗な顔を歪めてカカシが唸るように言った。ここには男しかいないのだから、彼女の言葉を代弁しているイルカに対して言っているのも同然だった。

カカシは何か考えているような顔でどんどんイルカの方へ歩いてくる。

生意気を腹一杯言った気持ちがある為に、イルカは身を固くした。よもや殴られまいと思うが、普通上忍にあんな口をきいたら、只では済まされない。

近づいてきたカカシが「わっ!」とイルカの耳元で喚いた。

指差す先に、先程の牛皿の中身が放り込まれた小さなビニール袋があった。イルカはそのビニール袋の口をくるくると結んで、泡の残っている手を洗い始めた。

「明日食べるって言ったじゃありませんか!」

「どうせ俺が食べるんでしょう、もうコレを食べたく無いんです……」

「俺の分でしょ!」

「そう言って、アナタ喰わないでしょうが」

「食べ物に当たる事ないでしょ!知らない女の味方はするわ、イルカ先生は酷い!酷い人だ!」

「俺の意見を聞きたがったのは、そっちですよ!それにね、毎回毎回、アンタの食べ残しを俺が喰ってんですよ!酷いのはどっちだ!」

カカシが嫌そうな顔をした。

「アナタほんっとに、女みたいな事言うんですね―――……」



どがん、がちゃんと物がぶち当たる音がアパートじゅうに響いた。イルカの階下の部屋はもちろんの事、同じ梁の上に乗っている隣部屋の住民にも振動が伝わってくる。それなりに生活音を立てていたアパートの住民達は、そこから息を潜めるようにして気配を絶った。ほぼ全室が忍が暮らす建物だ。皆、危険に遭遇した場合の対処方法を心得ている。

「出てけーーーッ!二度と来るなッ!」

玄関から飛び出したカカシの背中を狙って、食器用洗剤のボトルが飛んでくる。

勿論当たりはしないが、二階共用通路の廊下の柵を越え放物線を描いて落下して行く。次には亀の子タワシが飛んで来た。

忌々しそうに振り返ったカカシに、彼のベストやら額当てが飛んで来た。

「アナタ、―――それでいいの」

「うっっさい!二度とこの家の敷居をまたぐなッ」

月明かりの中、銀色の髪がフサと揺れた。こんな時でも、冷静に見えるのは上忍ならではだった。イルカの額に青筋が浮かんだ。

「じゃ、お別れだね」

「上等です!!」

イルカはその申し出を、当然だと受け止めた。

たとえ相手とどんな関係であろうと、言ってはならない言葉があるのだ。


続きます
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(2013.8.14)



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