大喧嘩3
ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰掛けたイルカは、自分が差し入れたばかりの見舞いの品を味気ない思いで食べていた。 隠れ里で忍と称するあらゆる仕事に就く者は、木ノ葉病院に入院すると、もれなく個室に入れられる。秘密を抱えている忍が長期間拘束される場所ということを考慮して、様々な危機を回避する事が狙いだ。 一般の病院のようにベッドの差額が要求される事も無く、無理を重ねる忍たちが休息を取るには絶好の条件だが、それほど親しく無い相手の見舞に来たイルカのような人間にとって、患者と向き合う以外にすることのない個室はかなりの苦行を強いられる空間だった。 消化がよく滋養のあるものをと、木ノ葉鶏の卵のプリンを見舞いとして持参したが、入院患者本人に甘い物は苦手な上、他に誰も来ないから困ると言われ、不味そうに食べる本人と向かい合わせで、イルカはご相伴に預かっていた。 「わざわざ見舞いなんぞ、忙しかろうに」 アカデミーで一緒に仕事をするようになって二年、この老人が素直に礼を言うのを聞いた事が無い。つまらなそうにスプーンを動かす老人の手つきを見て、案外大丈夫そうだとイルカは思った。 見舞いは今日で二度目だ。前回イルカは花を持ってきた。その時は眠っている患者を前に、若い看護師が花を受け取ってくれた。 「結構長い入院になりましたね」 「今度は心臓の方が悪いとさ」 老人の顔色があまり良く無いのは、そのせいなのかもしれないが、声は多少掠れている物の口の方は達者だ。 「どうして一遍に治さねぇ、薮医者めと、怒鳴ってやった」 怒鳴られた医者を気の毒に思いながら、イルカは口を挟んだ。 「一つ病気が出ると他の悪かったところも表に出て来るとか、そう言う事もあるそうですよ」 「まぁ、あちこちガタがきてるからな」 今日はわりと口数が多い。アカデミーの用務員として、こまめに動いていた日々から遠ざかっているのだ。この老人もおそらく退屈で仕方ないのだろう。 「……アンタ、俺の代わりに色々してるんだってな」 「はぁ、間に合ってませんが、時間がある時に少しやるくらいで、そんなもんです」 どこから情報を得たのか、老人はイルカのやっている事を知っているようだ。 用務員といっても、老人はアカデミー校舎にまつわること全てを任されていた。彼は一人で計画を立て、アカデミーの校舎内の保守点検から、修理まで業者を入れる事無く一人でこなしていた。アカデミーの敷地内の事なら、教室から百葉箱に至まで、イルカより彼の方がよっぽど詳しい。 「痩せたみたいだな、先生」 「そうですか?体重は変わってませんよ」 イルカとは対照的に、顔色の悪い老人が言った。 「受付も入ってるのに、しんどいだろ。校長に頼んで、新しい手伝いの人を雇ってもらいなよ」 彼の言う校長とは、アカデミーの最高責任者である火影の事である。 「…いやぁ、実は良い勉強になってるんですよ。大事な生徒が通うアカデミーの事ですからね、教師として知っておいた方がいいことありましたし、滅多な事では部外者に入って欲しく無い場所ですから、人を頼むのは簡単ですが、アナタが帰ってきて下さるとどんなに安心な事かと思います。子供達も心配してますから、早く良くなって下さい」 イルカの言葉は老人への励ましと、本心から来るものだった。アカデミーに出入りする人間は仕事が出来る事が第一だが、信頼できるというのが、もっとも重要な事だ。 深い皺のきざまれた老人の顔から、一瞬剣が取れたようにみえたが、イルカの耳に彼の長い溜め息が届いた。 「……先生、仕事熱心なのはいいが、良い人に逃げられても知らんぞ。つまらん、年寄りの忠告だが……」 イルカは図星を突かれてぶっと噴き出して 「そんな人いません」と慌てて告げた。 それから当然のように話題が尽きて、というより気力が尽きて、イルカは病室を後にした。 老人に暗に恋人の存在を問われ、カカシの顔を思い浮かべたが、先日イルカがカカシを追い出してからあの男とはそれきりだ。 酷い言い争いになった晩は、イルカも疲れから感情的になっていたかもしれないと今なら分かる。それでもカカシの言葉は彼の恋人を自認するイルカには、とても聞いていられないものだった。 嘘でも、自分はどんな理由があれ、恋人を裏切るような行為はしないとカカシに言って欲しかった。 例えどうしようもない事態に陥って、カカシがイルカ以外の他人と肌を合わせなければならない事になっても、その時までは今まで通りに関係を続けられるはずだ。 それなのに、カカシは自分から前もって裏切りを宣言したのも同じなのだ。 忍なら任務上そういう事もありえると分かっていても、里のどんな夫婦やカップルでも、表面上はどうあれ内心では平気でいられるはずがない。 似たような話で、誰もが振り返るような美女を恋人に持った、一人の友人の事をイルカは思い出していた。 やたら異性からもてるくノ一の彼女は、男が切れた事がないという噂だった。噂だけでなく、目立つ女性のこと故、過去に色んな男性と歩いている姿をイルカさえも見た事がある。 イルカの友人は優秀な男であるが中忍で、堅実ではあるが出世しそうにない人物だ。 異性にもてるだけあって、人あしらいが抜群に上手い彼女は、過去の男が親しく話し掛ける事があっても、決して邪見にしないで相手をする。相手の男は上忍か特上ばかりで、中忍というのは最近ではこの友人くらいだ。 「今、付き合ってる人がいるの」というのが彼女のお決まりの断りの言葉だが、それはまるで「今、付き合っている人間がいなければ」と聞こえなくも無い。 同時に複数の男と恋人関係になっているわけではないが、イルカ達には彼女が次々と止まる花を変える、浮気な蝶にみえた。 やがて仲間内から、そんな彼女を恋人にしている男の事を心配する声が上がった。 酒が入った時に、誰かが本人を前にはっきりお前は遊ばれているんじゃないかと男に聞いた。 遠く無い将来、彼女が別の男と腕を組んで歩く姿を目にする友人の事を心配しての質問だった。 イルカを含めた四人の目が男に注がれた。暫く、照れたように自分のグラスの水滴を指でなでていた男だが、ゆっくりと口を開いた。 「惚れちゃったから、仕方ないよ」 そう言ってはにかむ男の顔は、清々しかった。 馬鹿で、そして羨ましいヤツめ、と仲間達は肩を叩き合い、その日は多いに盛上がったものだった。 『馬鹿になれてこそ、男の恋だ』 何か有ればイルカはすぐに駆けつけて、男の愚痴を聞いてやるつもりだったのに、その機会は訪れなかった。 男に長期任務が回り里を離れた後、彼女もそれを追うように木ノ葉を出た。 二人がどうなったか詳しくは分からないままだが、便りがないという事は、きっとうまくやっているのだ。 今、あの男と話しがしたい。もっとよく聞いておけばよかったとイルカは思う。どうしたら彼のように達観した気持ちになれるのだろうか。 「あー…、馬鹿みてぇ」 カカシはまるで、あの男にとっての彼女のような人間だ。 ひとところにはじっとしない、浮気な蝶のようだ。 他人の目にはそう映っていても、当人には花から花へ移るのは罪な事でもなんでもない。蝶が生きる為に沢山の花から蜜を吸うように、カカシも忍として生き続ける為に他人と身体をかさねる事も当たり前だと口にした。 だから、そんな事が分からない面倒な恋人は、忍失格だと言った。 理屈では分かっている。所詮、そこまで自分を殺せないイルカは、カカシと違って中忍止まりだ。 だが、あの男はイルカと同じ中忍で、今よりずっと若かった。 あの男のようにイルカが何もかも許せたら、もう一度カカシとの時間が戻ってくる。 イルカは、惚れてるからカカシを許せない。 「オレの馬鹿……ッ」 カカシとの関係を惜しむ心と、男として傷付いたプライドが、イルカの中でせめぎあっている。 こんなに悩まなければならない程、本心ではカカシが好きだ。 気持ちを曲げてカカシに頭を下げれば、彼はイルカを許してくれそうな気がするが、許しを請わねばならないのは向こうだ。 イルカの事を、本当に女みたいだ、と言ったのだ。 特にカカシとの関係が深まるにつれ、密かに悩んでいた事なのだ。閨で受けるカカシの愛撫に、あられもなく感じるようになってしまってからは、受け入れる役をしている自分は、男らしさというものが欠けてきているのではと危惧していた。抱かれる事に悦びを覚えるようになってから、今まで通りの男としての自分を見失いつつある。 そう感じていた矢先に、イルカはカカシ本人からあの言葉を浴びせられたのだ。誰がそんな風にイルカを変えたというのだ。 カカシは嫌そうな顔で、イルカを女みたいだと言ったのだ。 あの一言で、カカシへのすべての想いが逆流するような感覚を味わった。 「許せねぇ……」 胃に穴が開きそうなほどモヤモヤとしたものが、イルカの腹の中で渦巻いていた。 今日は、カレンダー通りなら休日である。だが、隠れ里の忍の為にある病院は休日や一般的な診療時間とは無縁だ。 内科病棟から降りて、いつもは立ち寄らない売店を覗いたイルカは、一番近くの出口を探しうろついているところで、他の科で診察を待つ人々を見かけた。 そしてそこに見慣れた銀髪の頭を発見して、イルカは咄嗟に柱の影に身を潜めた。 彼は長椅子に座って、前方を見上げている。 「カカシさん」 呼び掛けたのはイルカではない。 彼の横には、歳若い女性の看護士の姿があった。イルカが背後から見ているとは気づかず、彼等はにこやかに言葉を交わすと、看護師はかがみ込んでもの馴れた風にカカシの両目に点眼薬をさした。 「暫く目を閉じていて下さいね」 看護師がカカシの目蓋の隙間からこぼれ落ちる雫を、手に持った脱脂綿で拭こうとした。さっと下から手甲を嵌めた手が伸び、白くて華奢な看護師の手を握りしめた。 看護師は恥ずかしそうに小さな声を上げ、カカシは目を瞑ったままで「あ、ごめんね」と言った。 「ご自分で拭かれます?」 「いいよ、やって。これまでも何回もしてもらってるのに、慣れなくてごめんね」 優し気なカカシの声がした。 「いいえ」 目を閉じているであろうカカシの端正な顔に看護師が頬を染めるのまで見届けて、イルカはむかむかする胃の辺りを押さえながら狭い通用路を大股で通り抜けた。 続きます →4へ (2013.9.1) |