大喧嘩4



いつもより大きな買い物袋を、狭い台所の壁に寄せてある食卓に下ろした。
イルカは帰り道に寄った食料品店で、苛立に急かされるように余分な食料を買い込んで来たのだ。
カップ麺などインスタントラーメンばかり、十個以上入っている。それにバナナと牛乳、もやしはさっと茹ででラーメンに載せる為に買った。
このイルカの食べ方をここに居ない誰かさんが笑うが、もやしを入れると旨味が増すのだ。ただの白くて歯ごたえのいい食べ物ではない。皮を向く必要も無いし、ゴミも出ない。便利で使いやすい。

「俺だってな……」

便利で使いやすい。
頼まれない仕事ばかり引き受けて、くたびれている。
男を受け入れもすれば、妊娠もしない。
そこでイルカは、はぁ、と思い切り息を吐いた。


カカシと喧嘩別れしてからずっと、イルカはあの男との事ばかりを思い返しては、むやみに頭を悩ませていた。
カカシに取られた態度が悔しくて、どうにも怒りの気持ちが腹の中でくすぶっているのだ。
まだ、上忍の下位の者を嬲るという、階級差が生むよくある弊害の一つ事として、カカシにもて遊ばれた立場の方がよっぽど良かった。
それとも本当に、二人が揉める原因となったカカシの同僚のように、イルカがいるのに他人と肉体関係を持った事実を突き付けられた方が、もっと簡単に心が離れて楽にふっきれたはずだろう。
自分にはカカシを繋ぎ止められるだけのものが無かったのだと嘆くかもしれないが、今よりずっとましな気分のはずだ。


カカシの考えでは例え他の女と交わっても、理解ある男のイルカは当然のように黙って付いて来る人間という認識だった。自分達は忍で男同士だから、そういう事態が起きても、お互いに分かり合えるカップルだと。

それは間違っている。神や仏のように尊んで欲しい訳ではないが、カカシに大事に思って欲しい。大切にしてきたではないかと強く反論されるに決まっているが、彼の思う恋人としてイルカの存在は軽すぎるのではないだろうか。自分はそのような軽い気持ちでカカシと過ごして来たのではない。

そしてカカシは、イルカを女のようだと言ったのだ。それならば、やはりイルカはカカシと共に歩み続ける事はできない。


今日偶然に思いもよらない場所で何日ぶりかに見掛けたカカシは、機嫌良さそうに若い女性の看護士と話していた。
ここにもイルカとカカシの差が現れている。カカシは楽しそうだった。異性に対し、明るく笑えるぐらいの心境でいるのだ。
それに引き換え、カカシを追い出して以降、今日まで自分は誰に対しても心からの笑顔を見せていない。気分が晴れないので、作り笑いも出来ない。生徒は別として、人と目を合わせるのも億劫だ。その空気が伝わるのか、心無しかイルカの周りの人間もどこかよそよそしいように思う。

当然だ。イルカはハートブレイク中なのだ。男とはいえ恋人と別れたばかりなのだ。疲れた顔で妙な空気を醸し出しているに違いない。実際イライラして、心の中ではヒステリックな反応の嵐だ。受付を代わろうかという同僚の親切には疑いの眼差しを向け、アカデミーでの室長のお小言には目を剥く始末だ。二十代半ばにしてまだ中忍のままのイルカだが、せめてどんな時も男らしくありたいと努めて来たのに、悲しい事に今はまるで真反対の位置に立っている。
それに比べてあの男はというと。

「にやけやがって……」

周りが放っておかないから仕方ないのだが、カカシはどこに行ってもちやほやされる。というより、異性に特別扱いされてばかりいる。
それも仕方ない事で、なぜなら噂に聞く木ノ葉の指折りの上忍は、会ってみると意外にも美しい若い男なのだ。

「あんちくしょう……」

過去に何度も見て来た光景が、今日もイルカの目の前で繰り返された。

「もてる男は違うってね……」

こんな場面に出会う度、焦燥感を覚えるイルカがいた。
カカシが魅力的な男であるのは間違いなく、もてるのも自分も好きになった訳だからよく分かる。
だが、彼が異性から親切にされるのを見る度、可愛い独占欲が湧くというだけではなく、当のカカシに対しても腹立たしく思ってしまう気分になる事は、やっかいでしかない。
この気持ちは、単なる焼きもちとして片付けてしまうには、根が深い。

沢山居る恋人志願者の中から、カカシの恋人として選ばれたイルカだが、周りに対して優越感が湧いた事もなければ、特別に誇らしい気持ちにもなったこともなかった。
なぜなら男同士ゆえに、秘密の恋だからだ。カカシは自分の恋人だと、居並ぶライバルを前に何のアクションも起こせない悔しさをずっと感じていた。
もっともそんなみっともない事を、イルカは男としてする気は無いが、心の中で思う分は自由だ。
自分の人生の中でありえないはずだった嘘のような同性との恋は、半端な気分を引きずったまま終わりを迎えた。

イルカは果たして世間一般で言う、カカシの恋人だったのだろうか。自分がそう思っていただけで、相手の中では違っていたのかもしれない。自信も恋も失ってしまった。


気がつけば、鍋に沸かした湯の中で茹で過ぎのもやしが踊っていた。
火をつけたガス台の前に立って、考え事をするなど危なかろう。怒りに捉われている間は、ろくな事がない。せっかくの歯ごたえも台無しだ。
イルカは口から息を細く吐き出すと、気を取り直してインスタントラーメンの袋を開けた。



**



翌日の事だった。

イルカが受付に入るため、人もまばらな夕暮れ時のアカデミーの校舎を抜けたところで、予想もしない男と出くわした。カカシだ。
アカデミーか関係者に用がない限り、部外者が滅多に通る場所ではない。その存在に気づいた時には目が合った。視線を反らす気配がないところを見れば、イルカを待っていたとしか考えられない。
カカシはいつものように両手をズボンのポケットに突っ込んで、前屈みになった姿勢で立っている。イルカ達、職員が踏み固めて作った通り道の脇に生えている樫の木陰に半分身を隠しながら、カカシは待っていたようだ。
そうかと言って、まだ気持ちの整理の付かないイルカは咄嗟に言葉も出ず、内心冷や汗をかきながらこちらの気持ちを悟られない内にと、素早く視線を外すと会釈をして走りすぎようとした。

「こんにちは、イルカ先生」

カカシの言葉に、イルカは足を止めた。

「こ、こんにちは……」

カカシは見えている右目だけでイルカを凝視している。眉は額にかかる髪に隠れ、彼が酷く怒っているようにも、ただ冷たい視線を送っているようにも見える。イルカはカカシの意図が読めずに、視線を彷徨わせたままその場に立ち尽くした。カカシもこちらの出方を窺うように黙っている。二、三分過ぎたところで、カカシが声を上げた。

「俺に掛ける言葉なんて無いんですか……」

責めるような響きに、イルカは瞬きをしながらカカシの顔を見た。不審そうに眉が寄ったかもしれない。それに気づいたカカシがすぐに言葉を続ける。

「アナタまだ怒ってるんですか?」

呆れたように言い放つカカシに、イルカの開きかけた唇が怒りで震えた。

「やっぱりその顔、怒ってるんですね」

はぁ、とつむじが見える程に首を倒して、これみよがしにカカシが溜め息を吐いた。

「あれくらいの言い合いを、まだ根に持ってるの?イルカ先生って、そんな人だった?」

「カカシさんは……!」

堪えきれなくなってイルカが言葉を返した事に、カカシが一瞬だけ僅かだが満足そうな顔をした。それに気づいてしまったと思ったイルカも、今更言葉を引っ込める訳にはいかなかった。

「カカシさんは俺に何と言ったか覚えてないんですか!」

カカシがイルカの進路を遮るようにのっそりと木陰から出て来た。

「……意見の食い違いが有ったかもしれないですが、俺は先生と付き合ってから、あの日、話しに上った男のように、アナタを裏切るようなマネはしてませんよ」

裏切るという言葉の辺りで、イルカの目がすっと細まった。

「でも、アナタの気が済むなら謝りますよ、何度でも。いらない嫉妬させちゃったんですよね」

ばつが悪そうにカカシが横を向いた。ほほが赤いのは、夕日のせいばかりではないだろう。
カカシの喉仏が布越しに動いているのが見えるのは、生唾を飲んでいるからだろう。カカシもイルカを前に緊張しているのだ。
二人で過ごす時には、あそこに鼻を押し付けて彼の匂いを嗅ぎ、脈動を感じながら首筋に唇を当てるのだ。そんな事をふいに思い出す。そうするのが好きだった。

カカシがイルカの瞳の中に何かを見つけたように、ぱっと顔を輝かせた。

「裏切ってるくせに……」

イルカの口をついて出たのはそんな言葉だった。心底驚いた顔をして、カカシがイルカを見た。

「あ、ありえませんよ!俺が意識不明にでもなって誰かに好きにされたとかならいざ知らず、浮気なんて事実は一切ありません!俺が好きなのはイルカ先生だけなのに、どうしてそんなに疑うんですか!」

「……本気で俺の気持ちを考えた事なんて無いんでしょう、人が何も知らないと思って……」

イルカの言う裏切りが事実だとしても、本人が気づいていないのだから、これだけはカカシに言わないでいるつもりだった。

「イルカ先生……」

勝ち気なイルカの目が潤んでいる。

「これ以上もう無理です」

そう言葉を残して、イルカはカカシの前から走り去った。


残されたカカシは、イルカの本心から出た無理だという呟きに、しばらくの間動く事さえ出来ずにいた。




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(2013.11.9)



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