大喧嘩5




残されたカカシは、瞬きもせずにその場に立ち竦んでいた。
イルカは泣きそうな顔をしてここから去って行った。いつものカカシならイルカとの間に他の人間が付け入る隙を与えまいと、一目散に飛び出していくところだが、今日は動けなかった。イルカの言葉にショックを受けているのだ。

『無理なんです』

まさか、イルカが自分を突き放すような言葉を本気で口にする日がくるとは思っていなかったのだ。
カカシは何か質の悪い術を掛けられたように、胸元を締め付ける痛みに襲われている。こうして立っているのがやっとの気分だ。人はこの痛みをなんと呼ぶのだろう。



元より、あの晩のちょっとした行き違いが、自分とイルカとの別れに結びつくなんて、思いもよらない事だった。
売り言葉に買い言葉のような中身の無い喧嘩だった。カカシはそう思っている。夫婦喧嘩は犬も食わない。まさにそれだろうと思っていた。
あの場でカカシがすぐ言葉の上だけでも自分の意見を撤回して、あなたの言い分は判ったと大人の対応をすべきだった。それなのに、たまには思いっきり意見をぶつけ合うのも健全な事なのではとふと思ってしまった。凡ミスが招いた大きな痛手だ。
イルカが物怖じせず話す姿が好きなせいもある。


最初にイルカがカカシを意識したのは、おそらく彼の元生徒で第七班の下忍であるナルト達を中忍試験に推挙した時だろう。イルカはカカシに食って掛かった。
試験に臨ませようとするカカシと、まだ早いというイルカは火影の御前である事も忘れ、人が止めるほど遣り合った。
カカシには、忍として生きる事に確固たる信念がある為に、他の人間から意見を言われてものらりくらりと躱して簡単にあしらってしまうのだが、この日ばかりは相手をしてみる気になった。
カカシは上忍師として下忍を育成する任を受けた。その子供達に安全な環境を提供するだけでは足りないのだ。彼等が忍として生きる限り、いつかは師である自分の屍を乗り越えてでも行かねばならない。まだそんな日は来ないで欲しいが、隠れ里に生まれた者としてそれが明日でないという保証も無い。一日でも早く、預かった下忍を成長させる事もカカシの使命だ。
アカデミーの子供達に忍術のイロハを教える上で、大きな怪我をさせない事は、イルカ達教師が果たさねばならない務めといえるが、その約束は下忍になると同時に卒業だ。カカシら上忍師は、生き残りを賭けて実践的に戦う方法を叩き込む存在でもある。そういった意味で中忍試験は絶好の修行のチャンスなのだ。
イルカの時期尚早であるという反対意見を聞きながら、悪い気はしていなかった。確かにまだ子供達は中忍試験を突破する実力は無い。イルカは知らないだろうが、カカシは日々成長して行く彼等の姿に可能性を見ていた。そこに賭けてやりたいと思う。予選から本選を経た頃には、一皮も二皮も剥けている事だろう。
ただ実戦形式の危険を伴う試験の事だ、かつて経験した事の無い程に彼等の身体は傷つくだろう。イルカが反対する理由はそこだ。だからと言って成長を待ってからというイルカの考えは甘いと言わざるをえない。カカシと同じように預かって一年に満たない下忍を試験に推挙したアスマや紅も、大勢の前で反対意見を述べるイルカをあえて相手にしようとはしていなかった。決定権は火影にあり、黙っていても下忍達は試験に臨むことになる。アスマ、紅の両上忍師はそれが分かっていて静かにしている。カカシも普段ならそうする。
だが、イルカが言葉にしてぶつかって来た事を面白がる気持ちもカカシにあった。
カカシは上忍歴が無駄に長いせいで、同年代には遠巻きにされていると思う時がある。だから、年下で中忍のアカデミーの教師があれ程食らいついて来るとは思わなかったし、顔色を変えてまで抗議するイルカの姿になぜだか気分が高揚したのだ。


その時の事をよく覚えていて、それで今回もイルカを宥めもせず、挑むような言葉を並べてしつこく詰め寄ったのだ。それが裏目に出た。
イルカの声は耳触りがよいので、いつもと違うほの暗く怒ったトーンの声も珍しく感じてもっと聞いていたい気もした。我ながら質の悪い事と思うが、怒った顔も可愛いと感じている。普段布地の下に隠れた白い額に、ちらっと青筋が浮かぶ事もある。あまり見た事の無いイルカの様子に喜ぶ自分が居る事も否めない。とにかくどんなイルカもカカシの中では愛おしくてならない。
イルカのアパートの隔離された空間では誰も止める人間がいないのだから、年上のカカシがタイミングよくつまらない言い争いを収めなければならなかったのだ。
イルカがあれ程怒るとは思ってもみなかった。女性をか弱き存在と見るイルカが、カカシの暗部時代の仲間の恋人に多いに同情したのだろう。
そもそも他人の痴話げんかの内容をイルカに話すのではなかったのだ。任務帰りにイルカの家へ直行せず、よそで飲んだ言い訳をしたのがいけなかった。
何もかも、この世の終わりのような顔をして、彼女との不仲をカカシに打ち明けたあの男のせいだ。そのおかげでカカシまで全く同じ目に遭っている。

それからどうして別れ話に発展したのだろう。
イルカがあんなに頑にカカシを拒もうとする理由はなんだ。何か決定的なカカシの不貞の証拠でも掴んでいるのだろうか。
カカシは青い顔で、必死に考えを巡らした。
イルカと付き合い始めてから今日まで、女の腰を引き寄せるようなマネはしていない。ただその事を、いまいち胸を張って言う事が出来ない。イルカは、カカシが裏切っていると言ったのだ。
カカシはあの時、事実無根だと反論することが出来ない理由を思い出していた。一つだけ不安材料があるならば、イルカと深い関係になる直前の事だ。

まだ、イルカと二人で歩む人生が自分に訪れるなんて想像も出来なかった頃だ。
同性に対して人に言えない想いを抱えていたカカシは一人焦っていた。
折しも上忍として短期の任務の帰り道、珍しく男ばかりのチームメイトに引っ張られるように、カカシは火の国の公娼地に足を踏み入れた事があったのだ。
彼等が手配した気の効いた座敷で、久しぶりの温かい食事を摂った後に、隊長であるカカシの相娼として彼好みの口数の少ない女を残し、男達はさっさと自分の相手の肩を抱え、赤い灯の影に去ってしまった。
そしてカカシは女に促されるまま、部屋に行き事に及んだ。及ぶつもりだった。

薄明かりの中、女の肌を露にして、カカシは本能の波が自分をさらうのを待った。
このところずっと、ここにはいないあの人と何やら怪しい事をしようとする夢を見ては、目を覚ましていた。夢の中でしどけない姿でカカシのベッドに横たわる彼に、恐ろしい程の興奮を覚えては、最後の所で白々しい朝陽の中、目覚める事を繰り返していた。
欲求不満でこんな夢を見るのだろうか。どこかで発散しなければどこかで間違いを犯しそうで、とてもまずい気がしていた。女遊びに向かう部下に引っ張られながらカカシが逃げ出さなかったのは、そういう理由があったのだ。
カカシの相娼に選ばれただけあって、すこぶる付きのいい女の体に触れながらも、頭の片隅には彼の事が思い浮かぶ。それでも慣れたもので、年季の入った女の奉仕にカカシの欲の溜まった身体はすっかり用意が整った。
いざ女の中に押し入ろうとした瞬間、通りから酔っぱらいの大きな歌声がカカシ達の部屋に届いた。

「……えっ……?」

イルカの声だ。吃驚した心臓がきゅうと縮む。
調子っ外れの歌声に、カカシは身体を硬直させたまま耳を傾けた。その時を待っていた女がカカシの下で怪訝そうな顔をしている。

「違…う…」

その声は、よく聞けばトーンが少し似ているだけで、明らかに別人だった。だが、全身に鳥肌のたったカカシのやる気が、マイナスにまでに落ち込むには充分な出来事だった。
カカシがイルカの事を気にし出してから、女と事に及ぼうとしたのはその一度きりだ。

イルカがどこからか事実を知って、おそらくは一緒に任務に就いたあの時のチームの誰かから流れた話しだろうが、カカシの浮気を咎めるならその時の事だ。
潔白とはいえない。自分がした事を正当化するのは難しい。
だが、相手は同じ男なのだから、その心理は分かって欲しい。
大きな片思いだった。
イルカにストレートに気持ちを打ち明けて、気持ち悪がられたり、その後遠ざけられたりする事が怖かった。もしもカカシの気持ちを受け入れてくれたとしても、長続きする訳も無いだろう。カカシは踏みとどまれるのなら、そうしたかったのだ。だから何の保証もないが、女の肌に触れてでもイルカへの気持ちを薄めてしまいたかったのだ。
そうだとしても、恋人がそんな事をしたと知ったら面白い話しでは無い。
まだ付き合う直前の出来事だが、相手が女性ならカカシは平手打ちぐらいされたかもしれない。けれどもそんなヒステリーな行動に出る女には別れてもらっていた。君に興味が失せたと言えば泣いて縋られるばかりだったが、そんな暴力に訴える女からは気持ちが離れてしまうので別れるしか無い。
ただし過去に付き合った女性には悪いが、これしきの事でイルカと別れるなんて今のカカシには想像も出来ない事だった。怒ったり、拗ねたり、いじけてみたり、それら全部含めてカカシのイルカなのだ。
そうでありながら、まだまだカカシもその日の気分で、暴言を吐いたり不味い行動をとったりしてしまう事がある。
先日のイルカとの言い合いがそうだった。話題上の知り合いでもない女の肩を持つイルカに腹が立ってしまったのだから仕方ない。
どうしてイルカは恋人のカカシの意見に賛同するのではなく、カカシの同僚の彼女という、全くの赤の他人の心情を汲み取ってやろうとするのだろう。イルカにはそんな事をする必要など全くないはずだ。
彼はカカシの事を一番に考えるべき人なのだ。カカシもイルカに対してそうしてきたし、彼もずっとそうしてくれていたではないか。それでどうして他人のカップルの話しから、カカシにあんな酷い態度を取れるのか気が知れない。

カカシはイルカを愛している。他人を愛する気持ちというものをはじめて実感させてくれたのがイルカだ。彼と切り離されて生きる世界などありえない。イルカと共に過ごす事は、カカシにとって息をする事と同じくらい大切な事だ。だから彼のいない明日など無い。
そのイルカがもう無理だと言った。本気の目をしていた。
彼が怒るような浮気などしていないが、イルカが納得するように説明する自信はこれっぽっちもない。

カカシは途方に暮れた。どうしたらいいのかさっぱり分からなかった。




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(2013.12.1)



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