大喧嘩10




 峠に、年に二度咲くという時忘れの桜が生えていた。その花の盛りは、人里に植えられている春の桜には遠く及ばないが、小さな花弁の儚気な風情が人の目を引くのだと老人が言った。今の季節は葉を茂らせて、埃っぽい街道に優しい影を落としていた。
「少し休むか」
 ほんの少し道を下った場所に年季の入った茶屋が建っていた。店先に野点傘を立て、赤い毛氈を被せた床几台が並ぶ様が、いかにもそれらしく、歩き疲れた旅人を誘っている。
 イルカが頭だけをのれんに潜らせて店の者に声を掛けた時、奥の床几台に座るその男の存在に気づき、息が止まるほど驚いた。
 銀色の髪が光沢を失い灰色に見えるのは、他の旅人のように砂埃にまみれているからか。随分草臥れた様子の、木ノ葉きってのエリートが、山深い街道筋の峠の茶屋にぽつんと一人で座っている。カカシの偽物かと思うような憐を誘う姿だったが、顔を上げた男の眼光の鋭さに、その疑いはあっさり晴れた。

(カカシさん……)
 蛇に睨まれたカエルよろしく、動きを止めたイルカだったが、護衛任務中の父娘の事を思い出し、カカシの視線をなんとか振り切ると、茶屋の娘に茶と団子の注文をした。

(どうしてこんなところで……)
 一般人に身をやつしている今なら、たとえ上忍相手に素知らぬ振りを通そうとも、不敬に問われる事は無い。例えその任務が荷物持ちでもだ。
 縁があるとはこういう事を言うのかと思った。こんなニアミスを、カカシの方こそ驚いているだろう。だが、先日の一件を簡単に忘れるような男ではない。恨みと腹立ちが入り混じったカカシの視線が背後に注がれるのを感じながら、イルカは店の軒先の床几台に腰を下ろした父娘のところへ戻った。
(しっかりしろ……)
 イルカは赤くなっているかもしれない顔を擦った。心臓がドキドキしだしている、イルカはたった今、正確に注文を口にしたかさえも自信がなくなっていた。
(怖い顔だった……)
 こちらに向けられるカカシの目は怒りに満ちていた。それも当然な話だ。
(笑って再会出来るとは思ってなかったが……)
 イルカはした事を思い出した。どんな理由であれ中忍が本気で殴り掛かる等、上忍にしてみれば侮辱のほか無い。
 個人の力の差がはっきりとした忍の世界は、綺麗ごとだけでは生きて行けない。上忍に逆らえばそれ相応の報復がセットになって付いて来る。だから一般的に歯向かった中忍の精神状態がかえって危ぶまれるくらいの話だ。
 そんな前置きは全部脳内からすっ飛んでしまって、上忍に対して遠慮ない頭突をくらわせて、さらに殴りかかった。空振りだったけれど。
 それで、当然のように、偶然出くわしたカカシから射殺すような視線を寄越されたのだ、イルカは本心ではすぐにでもここから離れてしまいたいと思った。しかし、特に老人の体調を考えれば予定通り休息を取らせる事が重要だ。
 イルカはカカシを満足に殴れなかった事を、一時歯噛みするほど悔しく思っていたが、偶然出会ったカカシの顔を見て、もう一度あの男に拳を当てたいという気持ちが起こらなかった。
 過去を振り返ると、カカシに手を上げられた事はなかった。年上で、忍としてのカカシは怖いくらいストイックな側面を持っているが、二人の間に階級差を持ち出したりしなかった。
 それなのに、イルカはずっと自分の気持ちを隠したままで、最後には迫るカカシに暴力を振るった。カカシがあのような強引な行動を取ったのは、何も言わずに頑な態度で押し通そうとしたイルカに焦れたせいだ。口が悪いのも、食べ物に気を遣う生活が出来なかったように、優しい言葉を掛けてもらえる世界にいなかったせいかもしれない。
 ふと、カカシに殴られてやってもいいと思った。怒りで心がいっぱいになっているのは辛いものだ。そんな暴力的なやり取りでも、カカシとイルカに残されたものが他にないのなら、それもいいような気がした。
 一秒後に馬鹿げていると思った。もう少し自分は格好いい男のつもりでいたのにと、イルカは自分の思考にがっかりした。

「そろそろ行くか」
 茶を飲み終えた老人が腰を上げた。娘もそれに続き、イルカは店の奥へ声を掛け、その場に代金を置いた。
(あの人、なんの任務に就いているのかな……)
 まだ店の中にいるカカシとて、こちらの知らない任務中であるはずだ。その埃っぽいつま先に、珍しく血が滲んでいたのを思い出し、イルカは一つ溜め息を付いた。








「先生、なんだいありゃあ」
 そう言われて、イルカは顔をしかめた。
 イルカと父娘から百mほど戻った道の上にカカシがいる。木立の立ち並んだ街道筋のことで、進んでいるとカカシの姿が樹々に隠れて見えなくなったりするが、見晴らしがいいところへ来ると、すぐにイルカ達の後を辿る姿が確認出来た。
 イルカ達が立ち止まればカカシも止まる。茶屋からずっとこの調子で、後ろが気になって仕方が無かった。あと一時間も歩けば次の宿場に到着するというところで、老人が堪え兼ねたように口を開いた。
「道の真ん中を歩いて追って来る忍なんぞ、気味悪い」
 老人が娘に気づかれないように、言葉を寄越した。
 決まりの木ノ葉の忍服を着た、覇気のない歩き方をする忍が、のたのたと街道を進む姿は確かに不気味だ。長身のカカシは目立つ為、このまま追って来られると、そのうち娘の方も気づくだろう。老人は怒ったような顔をしている。
「はたけカカシだろう、ありゃあ」
「はい、そのようです」
 イルカは顔を俯かせた。カカシが追って来るのが自分のせいならば、この父娘に申し訳ない。いや、それはイルカのうぬぼれだろうか。
「一体どういうつもりだ、ヤロウ」
 もしも、この場に娘がいなければ、老人は取って引き返し、カカシを問いつめることもしかねない様子だった。
「俺、話をしてきます……。少し先でお待ち頂けますか」
 イルカは思い切ってそう提案した。もしも、カカシがイルカに何らかの報復をしたいのなら、頭を下げて猶予を貰えばいい。男のプライドの前に、イルカは父娘を無事に送り届ける義務があるのだ。
「よしな先生、アイツが俺達に用があるのは分かりきった事だ。見ろ、こっちとの距離を詰めもしねぇで、ああやって同じ間隔で付いてきてやがる」
「……そうでしょうか」
「こないだの暗部といい、礼儀を知らねぇ無ぇ奴らだ」
 イルカは自分の招いたかもしれないこの事態に、いたたまれない思いがした。理由はともあれ、結果としてカカシには上忍らしくない行動をとらせ、この親子に不快な思いをさせることになっている。
 それとも、確かめた訳ではないが、カカシはどこか身体を痛めていて早く歩けないのではないか。そんな考えがふとイルカの頭をよぎった。他人がおかしいと思うような行動を意味もなくとる人ではない。イルカのよく知るカカシは優秀な忍なのだ。
「まぁ、日はまだ高いが、次の宿場に今晩の宿をとろうじゃないか、そうすればアイツが俺達を付けてるかどうかはっきりする」
 カカシがそのまま通り過ぎれば、ただの杞憂に終わる。元忍である老人の言葉に、イルカは頷くしかなかった。


 予定には無かった次の町で宿を取ることとなった。娘の方は何事が起きたのかといぶかしんだが、老人が足に出来たまめが痛いのだと適当な理由を付けてごまかした。
「下手な嘘つかせやがって、あの男め、来なかったらただじゃすまさねぇからな」
 老人は、少し前までは病気で入院していたとは思えないくらい元気だ。娘を連れた旅路に新たな敵が出現したことで、むしろ生き生きしている。
 先日、イルカの目の前で老人に追い払われた暗部の姿が脳裏に浮かぶ。カカシがここに現れたとしても、ただじゃすまないだろうとイルカは思った。
 しかし何事も起きないまま、やがて日が沈み、夕食が運ばれた。つつがなく食事を終え、イルカが自分の部屋へ戻る時刻になっても、カカシはとうとう姿を現さなかった。
 少し拍子抜けだった。カカシがイルカを追っているなど、自意識過剰も甚だしい。自分とカカシとの繋がりはとうに切れているのだ。切ったのは他でもないイルカだ。
 静かな夜だった。一人布団の上に転がっていると、低い地の鳴るような音が聞こえて来るが、それは虫の声なのか、自分の耳なりなのか、気落ちしたイルカにはどうでもいい事だ。
 旅の間、父親がいるとはいえ年頃の娘と同室になるわけにはいかず、毎回彼等とは別の部屋をとっていた。必然的に一人になったイルカは、昼間会ったカカシの事を思っていた。
 茶屋で行き会ったのが偶然ならば、もしもカカシも疲れていたならば、前方を行くイルカが隊で言う斥候役で、安全を確保した道を本隊・カカシが進むのはありえる話だ。それだけの事だったのかもしれない。
 宿に入ってからもう何時間も経っている。カカシは自分の任務に向かったはずだ。だけれど、何故かカカシは遠くへ行ってはいない気がした。どうしてもそんな風に思えてしまう。胸のざわつきが治まらなかった。血の滲んだカカシの爪先、埃にまみれた銀の髪。ここへ届く風にカカシの匂いが混じっているような気がする。あの男のように犬遣いでもないのにと、イルカはスンと鼻を鳴らした。
 このままではとうてい眠れそうも無い。イルカは起き上がると、部屋に影分身を残し、そっと宿を抜け出した。





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(2014.4.26)




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