大喧嘩13




 火を落としたばかりの湯を借りた後、カカシは宿の浴衣を着て部屋に戻って来た。傷薬を手に帰りを待ち構えていたイルカは、カカシの足を指差した。

「ソレいいですか、ちょっと気になっていました」

 茶屋で再会した時にカカシの爪先の怪我に気がついていた。指先にまで神経が行き届いているカカシは、滅多な事では怪我をしない。だからこそ、気になって仕方が無かった。

「ご自分で見え難いでしょうから、俺が塗ります」

 カカシは暫く黙っていたが、浴衣の股を割り、ドカリと畳に座った。イルカは遠慮なくその足首を掴んで引き寄せると、血が滲んでいた部分を検分しながら薬を塗り籠めた。元々深爪気味になっているところが割れている。爪の切り方がカカシらしくない乱雑な仕上がりになっていたせいで、割れやすくなっている。イルカは真剣な顔をして残りの足の爪も指の腹でなぞり確かめた。
 されるがままになっていたカカシは、何度か意味有りげな息をついて、やっと口を開いた。

「……俺とアナタ、前の様に戻れるの……?」

 前屈みになっていたイルカがぱっと顔を上げる。

「前の様に、アナタの部屋に行けると思っていいの?」

 前の様に、という言葉にイルカは反応した。前の様に。それが嫌になって喧嘩別れをしたのだ。

「俺に愛想が尽きたのなら、こんな情けをかけないで下さい」

 小さな声だった。先程までの老人に対し、頭を下げるにも堂々と、現役の木ノ葉の上忍然としたカカシとは違っていた。

「あ、愛想がつきたわけじゃありません」
「嘘だ」
「嘘じゃありません、……カカシさんこそ嘘をついてるじゃないですか。さっき言った、俺が里にいればいいとか、他に望みは無いなんてデマカセ言ってごまかして、本当は黙って里へ帰るつもりだったくせに……」

 カカシがいつまでも宿に現れる様子がなく、結局イルカが探しに行き、ここへ引っ張って来たのだ。

「本心ですよ。なんて言えばいいのかな、アナタみたいな人が里にいて、それで俺みたいな人間は闘えるんです。イルカ先生みたいな人が俺達の帰る場所を、そういう里を築いているんですよ」
「俺は、そう言って頂けるほど優秀な人間ではありませんよ」

 ここへきて今更社交辞令のような言葉を聞いても仕方ない。イルカが不満気にへの字口をすると、カカシも困ったような顔をした。

「でもね、人が帰りたくなる場所って、アナタのような人が居るところじゃないの?」

 カカシが尋ねるように呟いた。

「帰る場所……?」

 カカシがそんな風に思ってくれていたとは。
 イルカはじんわりと胸の中が暖かくなった。男同士の関係がいかに不毛か。カカシと抱き合う関係を続けていたが、常識に捉われたイルカの頭には、どこかでその意味を問う気持ちがあった。けれど、カカシとイルカの間には、一方的でなく、心が通じた部分もちゃんとあったのだ。カカシはイルカを一人の人間として認めてくれていた。

「ありがとうございます。受付の仕事をしてますから、そんな風に労ってもらえる事もありますが、カカシさんに言ってもらうと、本当に嬉しいです」

 鼻傷の痕を掻きながら、イルカは照れ隠しに笑った。カカシはそんな様子のイルカを見て、落ち着かないように辺りを見回した。そして諦めたように、ふっと息を吐いた。

「お世辞じゃないよ……、アナタがよその爺さんについて里を離れると聞いて、真実じゃないと分かっていましたが、一緒にいる姿を目の当たりにしたら、冷静でいられなくなりました。これが本当だとしたら、俺はとても受け入れられない事だと。……それでいつまでも遠巻きに見てたんです。近づいたら、老人相手に手を出してしまいそうで」

 僅かな空気の流れに、ジリと音を立てて行灯の灯が揺れる。

「さっきはあの爺さんを前にしてましたから、聞こえが良いように『アナタを里から取るな』と言いましたが、本音はそんなものじゃないんです」

「カカシさん……」
「俺達は駄目になったけど……」

 風に乗って、夜警が叩く拍子木音が聞こえた。

「イルカ先生が俺を嫌いになっても、俺はアナタが好きです。……遠くへなんて行って欲しくない」

 カカシは口をつぐみ、ゆっくりと立ち上がった。イルカは呆然とカカシを見上げた。

「ごめんね、この期に及んでつまらない事言ったりして。アナタは自分のしたいようにしていいんですよ」

 視線の先に、おだやかに微笑むカカシの顔があった。まるでナルトやサクラやサスケに向ける様なカカシの笑顔に、イルカはなぜか突き放されたように感じた。

「え……?」

 さっきはズボンの裾を咄嗟に掴んだが、気がつけば、イルカは座ったままカカシの両足にしがみつくように抱きついていた。

「イルカ先生」

 噛み締めた口からは、小さな呻き声しか出ない。行くな、の一言さえ口に出来ない自分が苦しかった。トントンと頭に触れる手に、イルカは余計悔しくなって、ぎゅぅとしがみついた。

「ごめんね、逃げるなんて、ズルいよね」

 大きな暖かい手が、イルカの長い髪をなでつける。

「イルカ先生、好きだよ」

 落ちて来る優しい声に、涙がこぼれそうになった。




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(2014.9.24)




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