大喧嘩7



イルカが病室に顔を出すと、老人から転院する事を告げられた。
「急ですね……」
他人の身の上の事とはいえ、思いがけない展開である。イルカはアカデミーで共に働いた老人の顔を見た。いつになったら退院できるのかとぼやいていたのは、ついこないだだ。
老人は今日の内に退院して、一度家に帰り、明日の午後には木ノ葉を離れると言った。
「……先生には世話になったな」
咄嗟にイルカはよくない事態を思い浮かべた。しかし、聞けば、老人にとって実によろこばしい話だった。
身寄りの無いと思われた老人には、里の外に残してきた家族があったのだ。そして彼は療養をかねて、家族のいる土地へ行く事になったという。
木ノ葉で暮らす老人が、入院生活をしていると、火影が便りをしたためたそうだ。年齢からいえば、老人は三代目と同世代の忍らしく、彼等が言葉を交わす姿をイルカは見た事はなかったが、古くからの知り合いだという話だった。
「そうだったんですか」
「俺はかなり早く第一線から離れたし、胸を張れる功績なんてありゃしない忍だったからな」
イルカは、入院生活で使った少ない衣類や日用品を紙袋に詰め込む男を手伝ってやった。
老人は、先日イルカが見舞いに来た時より、ずっと顔色がいい。

「お父さん」
若い女性の高い声が病室に響いた。
「先生、俺の娘だ」
老人がいつにも増して張りのある声で女性をイルカに紹介した。イルカも簡単に自己紹介をして、それぞれが互いに頭を下げた。
「この度は、父が大変お世話になりました」
「いいえ、私などはたまに見舞いに来るくらいで、たいした事は何もしていません」
礼には及ばないというイルカに、片えくぼの笑顔のかわいらしい女性が笑いかけた。娘らしいしぐさに、イルカは彼女が自分よりいくらか年下なのだろうと思った。
「父から全部聞いてます。うみのさん、ありがとうございました」
受付で退院の手続きを済ませて来たという老人の次女は、いかつい容貌の父親とはまるで似ていない。二十歳を過ぎたばかりの彼女は、忍と全く縁のない街で生まれ、母に姉と妹という女ばかりの家族の中で育ったそうだ。物心ついた頃から家を離れがちだった父が忍だと知らされたのは、十代の半ばであったという。
老人のように、里の外に家族を置く話は珍しくない。忍としてあらゆる危険から家族を遠ざける為に、あるいはクナイを持つ姿を見せたくないという人間も少なくない。
「アパートの方は大家さんと話して来たわ、家具は引き取ってくれるそうだから、そのまま出て行って構わないそうよ。入居の掃除と不要品の片付けは、木ノ葉の専門の方がして下さるそうよ、隠れ里ってすごいのね」
「もうそこまで話をつけて来たのか」
老人が声を上げたが、娘のキビキビと用事を片付けて行く様子は、彼に似てなくもないとイルカは思った。
「だって時間がないんだもの、私だってここへくるのに、仕事を無理に休ませて貰ったのよ」
そう言いながら、彼女は周辺に忘れ物がないか見回した。世話を焼く娘に、むずかし屋の老人も神妙な顔付きで黙っている。
「紹介してもらった病院へ入って、経過次第で自宅療養できるだろうとお医者様が話してた」
「俺は木ノ葉を離れるなんぞ、承知してないんだ。お前達は勝手に話しを進めやがって」
強がりの言葉を吐く老人に、イルカはチラリと娘の方を見た。
この時を待っていたとばかりに小柄な娘が父を仰いだ。
「私達はずっと我慢して来たわ、それに母さんにいつまで心配かける気よ、今度こそ父さんが折れる番でしょう、それも今よ。そうじゃなきゃこの先許さないから」
遅くに娶ったという老人は半世紀近い歳の差がある娘に、厳しい言葉で責められ苦りきった顔をしていたが、どこか嬉しそうにも見えた。


アカデミーの用務員だった老人が木ノ葉を離れる事になり、正式に人を雇う事になった。
それまでイルカが勝手に用務員の仕事を兼任していたのだ。教師の仕事と受付業務に加えて、校舎の保守点検をして、忙しくて身体がどうにかなにそうだった。
疲れから苛ついて、カカシと喧嘩別れになった遠因の一つにもなったのだが、世話を焼く相手もおらず、忙しすぎるアカデミーの雑務も全部取り上げられてしまえば、イルカは逆に落ち着かなくなった。
老人の見舞いも無くなり、不謹慎だが、明日からのイルカの居場所がなくなってしまったように思えた。一人の家に帰っても、カカシの定位置だった場所には座れず、静かに風呂につかっても全然寛げない。カカシが待たせていると、慌てて入浴していた頃の方が、何故かよっぽど疲れが取れた。
ビールを片手に、部屋の隅で何十分もぼんやりとして過ごした。
自分が役立てる場所があれば、ぽっかり空いた胸の穴の事も忘れてしまって忘れて過ごせる。

「どうしたもんかな……」
風呂上がりのビールもいまいち美味しくない。どうにも気持ちがすっきりしない。仕事にも他人にも気兼ねなく過ごせる自由な時間が与えられたというのに、イルカは積極的に何かしたい気が起こらない。
不機嫌なのだ。そう生徒にも指摘された。ピリピリして余裕が無い。その理由はある考えに心を占められているからだった。
イルカには、分かっていた。何が自分の本当に望む事なのか。
カカシと居たい。どんな障害があっても、カカシが好きだという気持ちが消えたわけではない。
別れたのだから、カカシと他人以上に離れた関係になるのは当たり前なのに、イルカはずっと寂しくて苦しい。
もう無理だと彼を遠ざけたけれど、イルカが関係を修復したいと本気で願えば、おそらく庇護する対象にはとことん甘いカカシは、最終的に頷いてくれるだろう。
だけれど今それをしたら、イルカが嫌だと思う繰り返されるカカシと亡き親友との密やかな時間を、二度と糾す機会を失ってしまうのだ。
この先しつこく話題にすれば、またあなたは女みたいだとカカシに言われてしまうに違いなかった。
カカシと離れたくないという気持ちと、カカシの行動を咎める気持ちとが、シーソーの上で重さを競い合っていた。


イルカは今日見た光景を思い出していた。
残念ながら数年ぶりの親子の再会を、イルカは目にする事ができなかったが、想像するだけで胸が熱くなる。
忍をやめた後も未練を断ち切り難く、木ノ葉にとどまり家族と離れて過ごした老人は、迎えに来た娘を前に、おそらくは彼女が現れた目的を知った瞬間に、里を去ると心を決めたのだろう。
老人はこんな事がなければ、家族の元に帰る事無く死ぬまで続けたのではないだろうか。遠くに居る家族も老人の事を思いながら、彼も妻や子にすまないと詫びながら、お互いに寂しい思いを抱えたままで時間ばかりが過ぎたかもしれない。
それがよい訳がないとイルカは思う。自分もカカシのも彼等と同じだ。
建前とか意地だとか、断ち切れない未練だとか、それらに心を縛られて道を選ぶより、大好きな人とただ一緒に居たいという気持ちの方が大切なのではないか。生き物としてそれが普通の事なのではないだろうか。側に居れば、助ける事も、守る事もできる。
イルカはアカデミーで受け持った子供等の顔を、次に若くしてこの世を去った父と母の事を、最後にカカシの姿を思い浮かべた。
だが、一つだけ割り切れない思いもある。もし、自分に忍として高い能力があれば、己の力がどこまで通用するのか試したくなるのが男だ。元忍の老人も、果たせなかった夢にすがるように里に拘っていたのだ。
そうであるなら、イルカも家庭を守ってけなげに自分の帰りを待つ妻を娶るのがふさわしい。
そういうものを一切合切全部放棄して、世の女性の様にカカシをサポートする側に身を置くのは、まだ若いイルカには受け入れ難い現実だった。
「……カカシさんが俺に望んでいるのはそういう事だ……」

夜の役割のことも、食事など日常のこまごまとした世話焼きも、結局多くの女性が担う部分をイルカがこなしている。カカシは女性にかしずかれることに慣れているらしく、イルカとの付き合いの中で特に何の疑問も抱く事無く過ごしていた。
年下でさらに上忍中忍という力関係のまま、カカシと恋人同士になっても、そこから抜け出せないでいる。その事にイルカはふと我に返り疲れを覚える時がある。
誰からも祝福されない恋愛に苦しんでも尚、カカシを好きな気持ちもやり直したいという思いも捨てきれないイルカだが、二人が向き合えば、解決できていない問題を前に、この先も様々な争いが生まれるのは分かっている。
「女みたいだ」
とまた言われたら。
カカシはそれほど悪意を持って遣ったのではないだろうが、イルカは今度こそ本気で怒りを爆発させてしまうかもしれない。女性のように抱かれる側に回りながら、自分の中の男の部分が知らぬ間に変容しているのではないか、それを一番気にしているというのに。誰かに聞いてもらうわけにはいかず、また例えカカシ相手にも話したくなかった。
欠片でも決して口にするつもりが無かった、カカシの慰霊碑への日参についても、口にしてしまった自分だ。
これ以上醜態をさらしたくない。カカシと二度と親しい関係に戻れないとしても、情けない姿を披露して軽蔑されるのだけはどうしても嫌だった。
もう少し頭を冷やした方がいいのだとイルカは思った。


**


帰り道にたまたま出くわしたあの日とは違い、今夜は意図を持ってその男が里へ帰って来るのを待っていた。
カカシが押し殺していた気配を露にし突如暗がりから声を掛ければ、男は飛び上がるのをぐっと我慢した様子で振り返った。少しばかりの意趣返しだ。
「少し付き合えよ」
「カカシか……」
カカシは先に立ち、有無を言わせぬ様子で歩き出した。二人は歳こそあまり変わらないが、暗部に属したのはカカシの方がずっと早い。上忍師となり、暗部から遠ざかっているが、その時の習慣が簡単に変わる事も無く、急に呼び止められた方も少し立ち止まった後、先輩筋に当たるカカシに大人しく従った。
目指す小料理屋のカウンターには数組の客がいた。その店の唯一の座敷に腰を落ち着け、適当に見繕った酒の肴が揃うと、カカシはふすまを閉めた。

「どうしたんだ、何か有ったのか」
ちびりちびりと杯を進めるカカシに、男が首を傾げた。
「お前の方こそどうだ」
そう言いつつ、カカシの視線は不機嫌そうにまだ杯に注がれている。目の前に居るのは、先日あれ程青い顔をしていたはずなのに、それも数々の戦歴も吹き飛びそうな弱々しい声で、カカシに彼女と破局しそうだと相談を持ちかけて来た男であったが、今日の様子は随分違う。
「いや、俺の方は、まぁ……」
面倒なのでカカシから話を振った。
「二人が三代目の執務室から出て来る所を見た、横に居たのは、油目一族のくノ一だろう」
男は口元に運びかけた杯を止めてカカシを見た。
「ああ、そうだ、見てたのか。俺達、所帯を持つ事になったから……」
カカシは驚きもしない、そうなのだろうと踏んでいた。
「火影様に正式な報告をしに行ったんだ。カカシにも相談に乗ってもらって、あの時は悪かったな」
「ふうん」
別れろというアドバイスをカカシがしたが、真逆の結果となった。
手をつけることなく、美味そうに湯気が立っていた肴は、出て来た状態と変わらず皿に載っている。

「俺に言う事はそれだけか」
切り取られたように美しい影のさす目蓋を持ち上げて、カカシが対面に座る男を見据えた。低い声はそのまま持ち主の機嫌を表しているようだった。
「こ、子供が出来てたんだ、俺がつまらない事をしてる間に、彼女のお腹に俺の子供が……」
顔を赤くした男を暫く見詰めていたカカシは、おもむろに銚子を取り、相手の杯に注いだ。

「任務に出る習慣みたいなもので、何の考えも無く女を買ってきたけれど」
それは過酷な状況にさらされた者達の、簡単に出来る憂さ晴らしの一つ。暗部は特に男の絶対数が多い為、任務就くイコール女を抱くというループが出来ている。
「浮気とか、そんなつもりは全然なかったなんて言い訳しか出来ない自分が、情けなくてな……」
「ああ…」
「……別れ話が進むにつれて、その間俺は彼女の事をよく泣くくらいに思ってたけど、お腹の子と二人分泣かせてたんだな。妊娠の事、なかなか話せなかったんだよ、彼女」
そこまで話した男に、再び杯を空けろとカカシがジェスチャーで促した。酒を注いでやり、男が杯をあおる。
「でも、……落ち着く所に、落ち着いたってことか、よかったな」
男が首を振った。
「一人で育てると言う彼女に、頭を下げ続けて、やっと俺の求婚を受け入れてくれたんだよ」
「許してもらった事とどう違う?」
結婚して家族になるという関係になったのに、打ち沈んだ様子の男にカカシは首を傾げた。
「カカシ、俺な、……今までの事を許したり忘れたりする事は正直まだ難しいと言われた、……彼女はもう一度チャンスをくれただけなんだ」
カカシは黙って男を見た。暗部の一員に選ばれただけあって、元々割り切った冷静な考え方が出来る男だった。無駄な感情など切り捨てる事を尊しとする、一流の忍だ。
だが、煩悶する男は、これまで見て来た中で一番人らしい顔をしていた。
「俺が壊す事さえ無ければ、彼女と家庭を築いていける、そういうチャンスだよ。でも、同じ過ちを繰り返せば、全部一遍になくしちまう」
「好き好んで他の女を抱くわけじゃないのにな……、所詮くノ一も、普通の女も一緒だな……」
カカシがポロリとこぼした。
「そういう事じゃない、俺がしたことで、それ程に彼女が傷つくなんて、考えた事もなかったんだよ」
「…… ……」
カカシは空を見上げ、男は手の中の杯を眺め、暫しの沈黙が続いた。

偶然でもなければ、顔を会わせる事のない男二人の静かな宴は、お開きの時間になった。考え込むような疲れた顔をしているカカシを、男がじっと見た。
「何か話したい事があったんじゃないのか?」
「……いや」
イルカとカカシの仲がもつれたのは、そもそも目の前に居るお前のせいだと、やり場の無い怒りを男にぶつけるつもりで、今日は待っていた。
覇気のない顔をさらすなと、火影や部下にまで文句を言われはじめ、何か打開策はないかと、藁をも縋る気持ちでいたのも本当だ。
偶然執務室から出て来る男と彼女の姿を見て、うまく決着がついた事を感じ取り、カカシはその話も聞くつもりでいた。
どうやって困難を乗り切ったのか、少しでも参考にしたかった。だが今夜は想像と違う顛末を聞かされるはめになった。

強引に誘った手前、カカシが会計を済ませて表へ出ると、まだ路上に男が立っていた。
「今日はすまなかったな、呼び止めて」
じゃあまた、とカカシが言い掛けると、男が困ったような顔をして言った。
「最後に一つ聞いてくれ。俺が気づかなきゃ、彼女は子供を身籠った事を黙ったままでいた。俺達は別れてたかもしれない。今もギリギリでよく気づけたなって、ゾッとするよ」
酔いが醒めるような告白に、カカシは言葉を詰まらせた。
「……木ノ葉の黒フクロウが出し抜かれるところだったのか」
黒い梟の面を被っていた男の異名だ。感知能力が特に高く、闇夜に紛れて無音で乱舞する姿はまさに梟だった。
中々優秀なくノ一だと思ったが、カカシは唸るだけで言葉にしなかった。
「ああ、ちっとも油断出来ない。だから、俺はもっと上の忍を目指すさ」
そう言って嬉しそうに笑うと、男は街の灯が照らし出す夜の道を帰って行った。
この男は強くなるだろうと、カカシは思った。彼の妻になる女は、この男の背に頼もしさを感じる事だろう。

家庭を持てと、つつかれた事は何度もある。特に長生きの重鎮たちが、小言のようにこぞってカカシに聞かせた。
妻を娶り、家族を持つ事で、木ノ葉に新しい命が加わる事だけでなく、その存在が男達の強さの原動力となっていく事を分かっていて勧めてきたのだ。
イルカとの関係はというと、どうなのだろう。カカシが彼を好きだという気持ちは尽きる事はなく、一緒に居て、日々満たされる事に幸せを感じていた。彼の存在が力になる。
だが、イルカはちゃんと幸せだったのだろうか。カカシが請い願って、恋人になって貰ったが、自分は彼を幸せにする事が出来ていたのだろうか。
イルカに甘えてばかりで、ねだり、抱いて、いつも一方的に自分の望みを受け入れてもらうばかりだった気がする。
子供が作れないという以前に、男同士の何も生み出さない不毛な関係というのは、もしや自分達のようなカップルを指す言葉なのではないか。
「もう、無理です」
というイルカの言葉は、もう少し我慢が出来るとか、悪い所を直して欲しいのだとか、そんな生易しい意味で使ったのではなく、カカシと過ごす事に限界が来たのだと言っていたとしたら。
イルカを幸せに出来ない人間に、彼の恋人でいる資格は無い。
カカシは身震いがする思いがした。



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(2014.2.14)
次でラストの予定です(汗



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