大喧嘩8



逸る心が、カカシの足を一直線にイルカの部屋へ進めた。
感情の赴くまま行動するより、せめて翌朝を待つべきか、その上冷静に順序立てて何から話すつもりなのか、全くまとまらない頭で、カカシは夜の闇に包まれた里を駆けた。
これまでずっとそうだったように、カカシがアパートの部屋の前に気配も露に立つと、ノックをする前にイルカが扉を開ける。この晩もそうだった。
黒髪を首の付け根に結い直したイルカの姿がカカシの前に現れた。これまでのように躊躇なくカカシに向かって戸を開けるイルカのしぐさは何一つ変わってない。それなのに、自分が彼に近づく事が許されない状況に陥っている事が信じられなかった。


「……どうしました、カカシさん?」
イルカの声に、とげとげしさはない。先日も気まずい別れしたままなのに、この人の中でカカシに対する怒りは溶けたのだろうかと思った。
黙ったままのカカシに、イルカも同じく黙った後、部屋の中にやっと招き入れた。

「入ってもいいの?」
「何か話したい事がおありなんでしょう?」
戸惑い気味に開かれるイルカの目に、カカシの足は玄関の三和土に縫い止められた。

「……イルカ先生、俺に直す所があったら、言ってくれませんか」
「直す……?」
サンダルも脱がず、カカシは突っ立ったまま言葉を続けた。

「まともな人付き合いができるような人生勉強をしてきませんでした。だから、自分の何が悪いのか、アナタを怒らせたりするのか、実のところよく分かってないんです」
イルカは驚いた顔でカカシを凝視した。

「でも、悪い所は必ず直します、ですから、俺の恋人をやめるなんて言わないで下さい」
土下座でもしそうな勢いで言い募るカカシに、イルカの方が慌てた。すでにカカシは膝を折って、玄関に座り込もうとしていた。自然に身体が動いたのだ。それ以外に方法が分からなかった。
悲鳴に近いイルカの声が上がった。

「カカシさん、そんなことするなんて止めて下さい!悪いのは俺なんです!」
カカシは放心したようにイルカを見上げた。

「イルカ先生……、すごく怒ってましたよね」
イルカが困ったように言った。

「……ど、どちらも、よくなかったと思います。俺も感情的になってました」
「じゃあ、俺の謝罪を受け入れて下さい、あの時の言葉は全部取り消したいんです」
イルカが開きかけた心を隠すように、眉宇を曇らせた。

「あの晩、間違った事を言いました。忍だから必要ならば他の人間と関係を持つのも当たり前のように言いました、浅はかな言葉だったと自覚しています、あんなの……俺の本心じゃありません」
口から出た無自覚な言葉が、己のたった一人の相手を酷く傷つけた事に、カカシも鈍い痛みを感じている。

「どうか許して下さい」
カカシは額当てを取り去り、どんな気持ちの揺れも見逃さないと、両の目でしっかりとイルカを見た。そのイルカは、ただじっとカカシを見ていた。だが、イルカの目に備わっている、人を癒すような暖かみのある光が、今は全く感じられない。何かカカシ以外の別の物を見ている。

「俺が嫌いになりました……?」
怯えたような小さな声に、イルカが首を振ると、カカシは安堵の溜め息を吐いた。
「……アナタの隣にいたいんです、イルカ先生」




それは、本当なのだろうかとイルカは思った。
カカシの言葉に嘘が無いのは、目を見れば分かる。夜も更けた頃に、思い詰めたような目をしてやってきた愛しい男の言葉なら、何であれ信じてやりたい気持ちになる。
だが、カカシの本当に隣に居て欲しい相手は、冷たい石の下に眠る彼の親友ではないのだろうか。
今でもカカシは、慰霊碑に向かえばそこで時間を忘れるほどに立ち続けている。その行動は、イルカと関係を持つ前から、今に至るまで変わらずに。
自分は永久に二番目なのだという事を知っていながら、イルカは考えまいとしていた。考えても何もいいことはないという事もわかっていた。だが、先夜の喧嘩がきっかけとなって、押さえ込んでいた思いが全部意識の表層に浮かび上がって来たのだ。
イルカのカカシに対する割り切れない思いの原因が、浮気ならまだよかった。とっちめることも出来るし、生々しい現実を目の当たりにすれば、愛想がつきるかもしれない。
だが、イルカの恋敵は、目に見えない相手なのだ。
カカシのイルカの側にいたいという気持ちは本当だろう、だが、それは決して叶わない彼の真に望んでいる相手の身代わりで、という説明が付く。
けれど、現世では、もう彼の望みは達成しないのだから、イルカが誰の代わりであって、誰の次であるかなど、比べる意味が無いのも確かだ。
だからカカシはイルカを誰かの代わりだと考えていない事も分かっていた。
気づいていないだけ。
カカシはイルカが二番目に求める相手であると気づいていないだけ。どうしようもなく、悲しい別れの多かった世代だから、もしかしたらイルカはカカシの二番目でさえもないかもしれない。
悔しくとも、それをカカシに指摘してやれないくらい、イルカはカカシに惚れている。更にイルカ自身の首を絞めている。
嫉妬にまみれた恋人の気持ちなど、カカシも聞きたくないだろう。イルカが逆の立場だったらきっと鬱陶しいと思う。
こんな男らしさの欠片も無い情けない部分が自分にあったとは、イルカにとって大きな誤算だった。前もって自分がカカシと対等に付き合える男かどうかよく考えればよかったのだ。そもそもそこから間違っていたのだ。要は自分は器の小さい男なのだ。親友の墓参をする彼の行動が許せないとは、カカシの生き方そのものを否定しているのだ。頭で理解しながら、それでも許せないと嫉妬を覚えてしまう自分が、心底嫌だった。
それでも嫌なものは嫌なのだ。
どんなに大口を叩いて強がりを言ってみたところで、自分よりずっと大事な相手に喧嘩を仕掛けて勝てるはずもなく。何もかも負け続きの自分だが、これ以上いじけて、醜態を晒したくない。




カカシは黙り込んだイルカに近づくと、腕を伸ばし抱き寄せようとした。イルカが後ろ側へ上体をそらした。

「……もっと、さっぱりした、……友達のような」
イルカの口から漏れ出て来る言葉に、カカシが顔色を変える。
「気楽な……、男同士だから、そういう付き合いができるんだろうと思っていました」
顔をそむけたまま、イルカが言った。

「融通が利かない人間で、すみません……。今みたいな付き合いが俺に向いているのか、自分でも答えがまだ見つけられなくて……」
形のいいイルカの耳だけが、カカシからよく見えた。



「……もう少し、時間を下さい」
カカシが首を横に振った。
「あれから、何日たったかな。時間ならもう充分過ぎるくらいあったと思うけど」
カカシの言葉に、イルカはなお下を向いた。

「考えたら答えが出そう?でも、終わりにしないでいてくれるなら、俺はあなた言葉に縋りたい。ねぇ、イルカ先生、それまでせめて一緒に、……顔を見に来るだけでも許してくれませんか」

イルカは額に手を当てて、深い溜め息を吐いた。

「ねぇ、何が駄目なの?言ってくれなきゃ分かりませんよ」
カカシは腕を伸ばしイルカを反転させ、上忍の力で易々と一人前の男の身体を壁に縫い止めた。

「俺の悪いところ、包み隠さず全部言って下さいっ」
カカシがそのつもりで押さえ込めば、同じような体格のイルカでも、とても逃げられない。

「泣く程嫌な事があるんでしょう、全部言って下さいよ」
間近にある、カカシの色違いの目を避けるように、イルカは横を向く。

「俺はこんなことで泣いたりしません……」
「じゃあ、言いなさい、俺の何がそんなにアナタを怒らせているのか」
腕を掴むカカシの手に力が籠る、貝のように口をつぐんだまま、イルカが顔をしかめた。

「怒ってるとか、そういう事じゃありません」
「言って、俺達はそんなに簡単な関係じゃないはずでしょう。俺に隠し事なんてしないでよ!」
カカシの言葉にイルカが反応する。

「言いたくありません!」
憤怒の形相のイルカと目が合ったカカシは、間近にある恋人の口に強引に唇を押し付けた。

「やめ…、っ…」
「あっさりがいいって、どういうこと」
イルカは身体をよじって抜け出そうともがくが、カカシはびくともしない。身勝手な動きでカカシの舌がイルカの鎖骨を舐める。

「今更そんなの無理でしょう、お互い」
カカシの熱い息が首筋に吹き付けられる度、イルカは身をすくめた。イルカの腕を取り、自由に使えない両手に変わり、カカシの長い足がイルカの中心に遠慮なく触れる。

「いやだ、カカシさんっ」
「すぐ立てなくなるくせに」
その通り、久しぶりに触れるカカシの体臭と的確な愛撫に、イルカは膝から崩れそうになるのを懸命にこらえていた。

「止めて下さいっ、嫌だって言ってるでしょう!」
手足を押さえられた状態で唯一出来る反撃として、イルカはモーション無しで頭突きをした。額が割れるくらいの強さで仕掛けなければ、この行為をやめさせることはできない。
ガツンという音が耳の奥に響き、目に火花が飛んだ。よろけはしなかったが、カカシは頭を押さえながらイルカの身体を離した。二三歩下がったところで、いまいましい目付きでイルカをにらんだ。

「ひどいね、イルカ先生……。いつまでもだんまりを通して、俺の事なんかどれだけ放っておいても平気でいられる」
イルカにぶつけられた頭をもう一度手でさすると、カカシは呻いてみせた。血は流れていない、それを見たイルカは少しだけ安堵した。その微妙な気配を敏感にカカシが嗅ぎ付けた。

「……ちっ……、ああ、そういうこと、……人の浮気を疑っていましたけど、アナタの方こそ、俺以外に好きな人間がいるんでしょう、じゃなきゃ、こんな仕打ちできるわけがない」
恨みの籠ったカカシの半眼が銀色の前髪の間から覗いている。
イルカはブルブルと震える右の手を握りしめると、無言のまま拳を繰り出した。。








(2014.3.14)
終わりませんでした…



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