大喧嘩9



 一見、藍染めで出来た布の手甲だが、下には目立たない色の医療用のテーピングが巻いてある。旅姿の老人はそれに気づいたのか、チラリとイルカの顔を見た。まさか痛めているとはいえない。イルカは荷運びとして父娘の旅に同行しているのに、そんな弱音を吐く訳にもいかなかった。
 これは火影直々に仰せつかった任務だった。里を離れる親子に付き添い、無事目的地まで送り届ける事、それがイルカに課せられた任務だった。
 老境にさしかかった病身の父親と若い娘。彼等の旅路に万が一の事があってはならないと、イルカに護衛を兼ねたほぼ荷物運びの任務が下りた。そうは言っても、かつて忍であった老人に対する餞別の意味も込められている。任務にかかる経費は、火影をはじめ、上層部にいる同世代の人間が出し合ったとも聞いている。
 父親の方には馬子を頼み、馬の背に乗せて予定の宿場まで進む、そこで医師の診察を受け、二、三日移動の疲れを癒してから、また再び移動をはじめるという気長な旅だった。イルカは医療忍術なら多少かじっている。合わせて気難しい老人も、イルカの付き添いなら構わないという事で、この話は急に決まった事だった。
 イルカも彼等親子の旅路が穏便に進むように、忍服を脱ぎ、一般人と同じ格好をしている。今のところ老人は大きな体調の崩れも無く、天気にも恵まれて旅は順調に進んでいる。ある程度大きな町まで辿り着けば、乗り合い馬車を利用する手はずになっていた。



 カカシを殴った。
 つもりだった。容赦なく放った一撃は、カカシではなく堅い丸太にお見舞いされた。格下の中忍の素手での攻撃に、代わり身の術で対抗された事が、避けられる事は想定内だったにかかわらず、イルカの怒りをさらに大きくした。
『家の中で、こんな手使いやがって』
 音を立てて部屋の隅に吹っ飛んだ丸太に、カカシが目を剥いた。
「……本気でやったね、アナタ」
「オレの本気なんか、たいしたことないでしょう」
 言うざま、イルカはカカシに突進して二発目を繰り出す。怒りに支配されて拳を当てる事しか頭に無い為に、直線的な動きになった。カカシにやすやすと受け流され、横から身体を突かれたイルカはバランスを崩してたたらを踏んだ。傾く視界の中、一瞬だけカカシの歪められた顔が見えた気がしたが、畳に膝がつく頃には、部屋の中にはイルカ一人になっていた。



 丸太を殴った右手は、手首をねん挫し、拳にはかさぶたと青黒くなった打ち身の痕が残っている。隠す為に手甲とテーピングを巻いてある。見えない方が気分もいい。
 ともかくも、カカシとの縁はこれで切れた。問答無用で本気で殴り掛かる男の恋人など誰でも嫌だろう。
(最後くらい殴らせろよ……)
 少しぐらい拳が掠っていたら、もっと気持ちも晴れただろうにと思う。イルカは樹々の間に広がる、澄み渡った青空を見上げた。
 愚かにもカカシにつきまとう過去に嫉妬し、それが我慢出来なかった。それが今度はカカシを許せないに変わった。カカシがイルカ以外の人間に心を向けていると知って、胸を痛めた付き合いも間もない頃が、今となっては懐かしい。
(自分を放っておくだの、なんだのと……、まるで俺が勝手にしてるみたいに、自己中心なのはそっちだろうが)
 イライラする。最後の最後まで、こんな気分にさせてくれるなんて、本当に驚かされる相手だ。
 里の人間からは穏やかで優しいと評されるカカシが、どうしてイルカには、ああも心ない事を、呆れる程に次々と言えたのだろうか。
(俺の心を疑いやがって)
 それはそろそろイルカに愛想が尽きはじめていたからなのか。
 喧嘩をしたあの日もそうだった。イルカが傷つこうがおかまいなしなのは、元にそういう理由があるに違いない。宝物のように大切にされたいとは思わないが、大切にされていないと知るのは辛い。
 そもそも自分が大切にされるだけの、またカカシのような同性の恋人を長い間引き止めておける魅力ある人間でないということだ。

「もう、馬はいいよ」
 宿の風呂へ向かう、長い渡り廊下で老人が言った。声を掛けられたイルカは、ハッと振り返る。宿自慢の温泉を堪能しようと、休息もそこそこに風呂場へ向かう途中だった。
「馬子に払う代金は、里を出る前に三代目よりきちんと預かっております」
 やっと三カ所目の宿に到着したばかりで、旅の行程はまだ半分以上残っている。
「俺だけ馬の上じゃ何も聞こえんからな」
「えっ……?」
 旅の道中、もっぱらイルカが娘の話し相手になっていた。よく喋り、笑う娘だった。仕事を離れての屈託のない会話は楽しくて、イルカもついついおしゃべりになった。馬の上からそれがよく見えていたようだ。老人は今度は自分が娘の隣に並んで歩きたいのだと、遠回しに言っているらしい。
「分かりました。体調もよさそうですし、いいでしょう。その代わり、お疲れの時は俺がおぶいます。足が痛くなったら、すぐに仰って下さい」
 イルカがそういうと、老人は満足そうに頷いた。
「まぁ、そんな事にはならんといいがな。それはそうと、うちの娘はどうだ」
「……ええ、素敵なお嬢さんですね」
「そうだろう、そうだろう」
 老人が人の悪そうな顔をして笑った。
「気も合うようだし、先生になら、考えてやらんでも無い。先生は玉のような赤ん坊をゴロゴロ授けてくれそうだしな。アンタならきっと、家内のお眼鏡にもかなうだろう」
「はぁ……」
「うちは安産の家系だぞ」
 惚けているイルカの尻っぺたをパシンと叩くと、カラカラと笑いながら老人は廊下を進んだ。ふと娘の体つきを思い浮かべてしまい、イルカは頬を赤らめた。
 年季の入った旅籠の床板は鏡のように逆さまの世界を映し出している。そこに、ぼんやりとイルカの姿もあった。笑顔の減ったイルカに老人は何かを感じ取っていたのだろう。この人からこんな砕けた冗談を聞くのははじめてだった。イルカは、老人に励まされたのだと気づいた。


 夕食までのひと時、ひとっ風呂浴びたイルカと老人は部屋で涼みながらのんびりと過ごしていた。娘の姿は無い。長風呂の彼女はまだ戻っていなかった。そこへ突如招かれざる客が現れた。
「おはつにお目にかかります」
 深々とフードを被った男が、イルカ達の前にいた。
 部屋の窓から入った小さな式鳥が、特殊なさえずりで火影の忍の来訪を告げると、間を置かずにその男は現れた。面を着けた姿から火影直属の暗殺特殊部隊の一員だと分かる。人探しをしているのだと男は述べた。
 イルカ達が泊まっているのは、木ノ葉の忍が常宿としている旅籠でもあり、そのような里の同胞と情報をやりとりする場でもあった。しかし、老人は現れた男を一瞥して、眉をひそめた。
「娘は一般人だ、この子が戻る前にとっとと済ませてくれ」
 男は動物の顔を象った面を縦に揺らすと、詳細を口にした。
 任務に乗じて里抜けを企てている一人の忍を追っているのだと言った。外部からの協力者の存在が疑われているが、今はまだ明らかになっていない。
 男は落ち着いた声で淀みなく、道中不審人物と行き交わなかったか、あるいは何か気づいた事は無いか、一通りの質問を口にした。だが、男が捜索中の人物の正体を明かさない為に、こちらから返せる言葉も少ない。
 最後に、と暗部の男は前置きをして、あなた方の旅の目的を口頭で述べろ、と言った。この質問は当然、捜索の手順に乗ったものだが、イルカは答えるのが一拍遅れた。イルカが付き添っている父娘は一般の依頼人とかわらない。彼等のプライバシーをおもんばかったのだ。
「おい、若いの」
 躊躇してるイルカの代わりに老人が声を上げた。
「里抜けの事など何も知らん。そっちが知りたい事ならもう全部答えたんだ、いい加減話を切り上げてくれんか。忍世界の事なぞ、万が一にも娘の耳に入れたくない、いい迷惑だ」
 フードの中で影になっている白面の角度が変わった。どこを見ているのか分からないが、その目は確実に老人を捉えていると思われる。
「おっと、いくら忍を辞めたからといって、何も里への恩を忘れた訳じゃない。でも、アンタは自分の任務だから、どれだけでも粘りたいところだろうが、こっちの事情はなんか関係ねぇってハラだろう」
 イルカは老人の機嫌が良くないのを感じ取り、ひやりとした。この調子でアカデミー教師を子供のように叱ったりして、嫌われてきた人なのだ。アカデミーという人の多い職場で用務員の仕事に就いていたが、彼と親しい人間が少ないのは、主にそういう理由があったからだ。たいていの場合老人は間違った事は言っていないが、それが余計に人を怒らせるらしい。
 老人に視線を向けたままピクリとも動かなくなった暗部の様子に、イルカは自分の返事が遅れた事を強く後悔した。
「俺は家族に忍のしの字も臭わせないように離れて生きてきた。それこそこっちの事情だが、その苦労が分からんほど知恵の足りん忍を、三代目が側に置くわけがないと思ってたんたがな」
 ミシミシと廊下を歩く人の足音がした。イルカ達の部屋の近くに人がいる。会話から夫婦と思われる彼等の足音が遠ざかるまで、襖一枚こちら側の人間は誰も口を開かなかった。
「もしも、ウチの娘に少しでも不愉快な思いをさせようものなら、俺はお前さんを許さねぇからな」
 実際に風呂に出掛けている娘がいつ部屋に戻ってもおかしくない頃合いだった。それに加え老人の苦言に、これ以上暗部の男が黙っているとも思えない。
「私が外で話を伺います」
 イルカがそう言って立ち上がろうとすると、老人が手で制した。
「この青年は、俺が三代目より預かる事になっている。いずれ娘と所帯を持たせる約束でな」
 驚いたイルカは口を開けて老人を見た。
「文字通り、この旅は俺達に取って、めでたい門出なんだ。里抜けだの物騒な話をこの場に持ち込んで、水を差すのはやめてくんねぇか」
 老人が懐から元は巻物だったと思われる蛇腹折りの書き物を取り出した。
「ここに、この人の木ノ葉の離籍証がある」
「そんなもの、いつ……」
 イルカの声は驚きで掠れていた。
「黙ってて悪かったな」
 老人は暗部の前でその証書をパラパラとめくって見せた。そこには確かに火影の印と、イルカの名前もあった。
「三代目……」
「お前さんが働き過ぎだと心配していなすったよ。難しく考えず、長いものには巻かれたらいい、こういう縁も悪かないぞ、先生」
 イルカは、不安や喜びで心に揺れが起きた時のいつものくせで、顔の傷跡をしきりにこすった。呆然としながら呟くのは火影の名前だ。
「世話を掛けた……」
 暗部の男は急いで立ち上がると、来た時と同じように音も無く部屋から消えた。

「いきやがったか」
 老人が忌々しそうに呟いた。
「ホラ、先生の分も俺が預かっていたんだ」
 老人は先程の折り畳まれた証書をイルカに差し出した。イルカが手に取ると、途中で紙が重なって折り込まれているのがすぐに分かった。証書二つが重なっていたのだ。老人の離籍証に途中からイルカの任務票が重なっている。
 老人はさも、まるでそれが一つのもので、イルカの離籍証書であるかのように、器用に肝心な所だけをめくって見せたらしい。
「やっぱり、こんな悪戯をしてましたか」
 イルカは呆れたように言った。
「いけすかねぇ男に、何も本当の事言ってやる義理はねぇな」
「普通でしたよ、あの暗部の人」
「俺の目出たい旅立ちに、里抜けだとか、いちいち聞き捨てならねぇ事ぬかしやがって、頭にきたんだよ。聞きようによっちゃ俺が里から逃げ出したみたいに聞こえただろう」
 老人は本当に腹を立てているらしい。八つ当たりに近いが、里を離れるという思いは複雑なのだろうと思った。
「ただ、手順に乗って質問をしただけで、俺達を疑っていた訳じゃないと思います、あんな嘘はよくありませんよ」
 イルカは里に戻った後の事を考えると、少し頭が痛い。
「奴は疑ってたさ。仲間でも疑ってかかる、それが暗部の仕事だからな。本気で疑えば相手は何かしらボロ出すかもしれねぇ、俺達は若い奴らにそういう風に教えたもんだ」
 イルカは眉を上げて老人を見詰めた。
「……そう、でしたか」
 老人が家族と離れて暮らしていた事や、今まで自分の過去をほとんど話さない理由がそこにあるのだと、イルカは思った。
「知らなかったのかい先生、昔は落ちこぼれの受け皿みたいなもんだった。どうしようもない悪ガキを集めた部隊だったんだよ」
 老人は腕組みをしながら遠い目をした。
「いや、先程のお手並みは、素晴らしいものでした」
 そう言ってイルカが頭を下げた。
「先生の演技もたいしたもんだ。現役相手にやってくれるぜ、俺も胸がスッとした」
 老人が大口を開けて笑う、イルカも久しぶりに声を出して笑うことができた。。



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(2014.4.26)




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