うまやか事(前編)
夫婦喧嘩は犬も喰わない。まさにその通りなのだが、自分の知る彼らに限っては、他に話を聞く事の出来る人間がいないので、紅がその役を買って出た。もう十年になるだろう。
疲れた顔をしているのは、相方の不実な振る舞いに疲れ果てた一人の男。古い付き合いだが、はっとするほど男は疲れた顔をしている。若い頃は短気と言
われていた事もあったが、それは教師という職業柄、生徒をる時の話であり、ことパートナーに関しては実に辛抱強い男だった。
「紅さん、こんな仕打ちってあるでしょうか」 今日の愚痴は最初から弱音交じりだった。変らぬ色を感じさせるため息に、声は歳を取らないと紅は思った。 「俺はどうしたらいいんでしょうね」 喧嘩をしたい相手は交渉事に関して彼よりも一枚も二枚も上手の人間である。頭の良さだけでも上忍になれるような男だ。自分の立場が不利で有る事を承知で、まずは不機嫌な伴侶の待つ家には帰りもせず近づきもしない。
「アイツはひどい事をしてるとは思ってないのよ。要はイルカに甘えてるのね」 毎度の事とはいえ、つれない恋人を待ちわび、辛抱出来なくなった紅を尋ねて来る頃には、イルカはほとんど泣き顔だ。 「そうですか、何だか慣れて来た気がします」 向こうは酷い仕打ちをしていると認識していないのだ。そう告げてやると、疲れを滲ませる顔色が少しだけ良くなった。 「男っていくつになっても馬鹿だわ。あら、カカシの事よ」 慰めを言って問題が解決しない。紅はいつものように気分転換させようと務める。 彼らは夫婦同然の関係であることは、周りも知っていた。騒ぎ立てる事でもないし、だれに迷惑を掛けるでも無い。しかし、カカシが六代目火影を正式に襲名することになって事情が変わった。
火影になろうかという上忍の伴侶が、世間的に同性であるという訳にはいかないということだった。隠れ里のすべての住民は、運命共同体であるという大前提の前に、別れさせねばならぬという意見が上がったのだった。
女というだけで不利益を味わって来た身としては、里の為の大義名分などどうでもいいと思ったが、忍の世は未だに厳然とした男社会で成り立っている、現実問題としてそういう人物を火影に推すべきではないという声もあった。
忍の性別を男女で比べると絶対数が違うため、おのずと男性優位の状態で里創りがなされて来た。里の中枢組織に女性もいないわけではないが、男達の価値観で築いたルールに従えない者は、すぐに排除されてしまう。
そもそも火影を頂点とした序列は見せかけで、彼らが火影として担ぐ人物の資質が最も重要視されるのだ。何よりも周りの人間の意見に耳を貸す人間であ
る事、次に異端視されるような事の無い人間でなければならない。里の総意を受けて長になるとしても、中枢組織内においては、神輿に乗るようなものだ。
実際、木ノ葉が忍大国として君臨しているのは、すぐれた伝統を守る組織力の高さによる所だと言われていた。五代目にしてやっと初の女性火影となる綱手姫がいたが、初代千手柱間の孫娘でなければ、どんなに秀でた忍であっても白羽の矢が立つ事がなかったと言われている。
六代目火影が誕生する事になって、少なく無い人間が二人の関係を知ったが、それから徐々に事態は変わって行った。近頃ではイルカがカカシの愛人として数えられているのかさえ怪しくなっている。
というのも、カカシが名実とともに木ノ葉の里長として知れ渡るようになるにつれ、それまで遠巻きにしていた人々が彼を放っておかなくなった。独身の
火影を巡り、本人が希望せずとも彼の身辺で慌ただしい動きが起こりはじめたのだ。イルカという同性の恋人の存在が問題視され、六代目火影誕生に一悶着有っ
たのは事実だが、そもそも男同士のカップルに子供はできない。後ろ盾となる身よりも無く、子を生せないイルカなど最初から憂慮する相手ではなかったのだ。
六代目火影の妻に座を巡る争奪戦に、里の創設に関わった幾つかの名家が諸手を上げて加わっている。恋人としてのイルカの存在など、誰も気にしていない。
カカシはつい先日も里の有力者とともに大名と懇親会に出て、独身の火影をもてなす為に集められた美女達と、楽しい夜を過ごしたらしい。この数年の間に、もう数えるのが馬鹿らしくなる程、同じような出来事をイルカは聞かされていた。
公人である火影の予定は筒抜けであるし、誰のシンパなのか入れ知恵なのか、要らぬ事を一つ残らずイルカに吹き込む輩もいるのだ。
「あの人と家で会ったのはもう四週間前です」
イルカは空になった湯飲み茶碗を手のひらで転がしながらそう言った。恋人らしい時間はいつが最後だっただろう。 「例のごとく、深夜にひどくお酒に酔って帰って来ました。朝には執務室にとんぼ返りですよ」 カカシには里から、火影として恥ずかしくない程度の屋敷が与えられている。それでもイルカ一人で暮らしている一軒家にカカシが来た時は、必ず『帰って来た』という言葉を使う。 「四週間って、ひと月の事じゃない」 イルカがその間一人で過ごす夜と同じだけ、カカシが一人で過ごすはずも無く、紅はイルカのぬぐいきれない疲れの正体を知ったような気がした。 「こうして会ってる私の方が、よっぽどイルカの恋人みたいね」 軽口を叩くように言うと、イルカが可笑しそうに頷いた。 「火影の職務は限りない事を承知していました。二人の時間が減る事は分かっていたんです。きっと行き違いが増えるだろうから、気をつけようと思っていたんです。それでも、どうして俺達こんな風になっちゃったのかな。……多分、俺がいけないんですけど」 イルカが言っているのは五年前の出来事だろう。
イルカが、三代目の頃より火影の私設秘書のような雑用から何でもこなす世話係りとして働いていた事は誰でも知る話だが、権限も無いまま自由に火影の
執務室に出入りし続けていた事を、ある日突然問題にされた。ちょっとした書類の紛失事故があったのだ。それはすぐに発見されたが、タイミングがイルカの出
入りと重なったのだ。アカデミーを兼任する者と執務室専属の者と、どちらに非が有るか、イルカは責任を二分しているつもりなどないが、彼を苦々しく思って
いる側の人間に口実を与えてしまった事に変わりなかった。
どこからの横やりか、妬みか、イルカの件について進言した者が誰だったのか追求される事無く、それぞれの職務を侵さないという判断の元、イルカは火影付きではあるが、執務室とは別の部署で働く事となった。
それを中枢部の意向と受け取ったカカシが、目に見えてイルカと距離を置くようになった。火影にとってとうとう古女房ならぬ、厄介払いの口実が出来たのだ、そういう酷い噂が流れたが、イルカは笑ってやり過ごしていた。
それから、目に見えてイルカが紅の元を訪れる事が増えた。イルカがカカシについて安心して語れるのはこの場だけだ。紅としては、後輩に、それもイルカに頼られるのは嬉しい事だけれど、忍の第一線から身を引いたような自分しか彼の話を聞いてやれない事が、気の毒に思えた。
「もう、あの人のマスクの下の顔を忘れそうですよ」
カカシが休んでいる姿しか思い出せない。まともに話そうにも、イルカの家に帰るカカシは必ず酔っている。 「もう一杯淹れるわね」 イルカにお茶のおかわりを注ぎ、紅が椅子に腰を下ろす。 「覚えておかなきゃならない顔でもないわよ。アスマの方がイイ男だったわ」
紅は豊かな髪を片手でかきあげた。 「ええ、アスマさんはいい男でしたねぇ」 壁際の写真立ての中で微笑むアスマは歳も取らない。紅は彼が遺してくれた娘との暮らしを守る為に、忍である事を辞めた。優れた幻術遣いだった彼女の復帰を願う者が多いが、それはもう少し先になるだろう。 「そうよ、カカシなんて目じゃないわよ」 「アハハハ」
かつて紅は忍を育成する上忍師としてカカシと肩を並べた。忍としてもイルカよりずっと近いところでカカシと命の預け合いをした事も有る。六代目火影は優秀な男だが、こんなに人のいい青年を不幸な目に遭わせているのは許せなかった。 彼らの蜜月の頃もよく知っていて、カカシの熱の上げようには、驚かされたものだった。それでも現在のカカシのイルカに対する思いに疑念を抱かずにはいられなかった。
世間が言うように、六代目火影として活躍するカカシは、付き合いが古いだけの名ばかりの恋人など、厄介払いしたいのだろうか。
階級差故にイルカが陰になる事はあっても、彼がカカシの前に立って邪魔をする事は一度も無かった。激務である火影を補佐する為に、イルカはアカデミーに籍を置きながらも、ほとんどの時間を、第四次忍界大戦後の里の復興の為に寝る間も惜しんで働いた。
隠れ里を取り巻く世界の状況は変わった。木ノ葉の里のすぐ隣まで火の国の民が住む街が広がり、忍の世界と人の暮らしは近づいた。平和な時代とともに隠れ里が必要とされる事も無くなると思えたが、カカシの外交力のおかげで忍の需要は減るどころかますます増えた。
そのようにカカシは火影の役を怠るような男では無かったが、イルカに対する労いは全く足りていなかった。
紅は差し出がましいと思いつつ、つい先頃カカシに進言した。突然の来訪に、里長であるカカシは忍に復帰するなら協力すると言って柔和な顔を見せたが、こちらの目的を察するやいなや態度を一変した。
「私の口から言うのも変だけど、イルカは頑張ってるわ」
「知ってるよ」
イルカを顧みてやって欲しいと、率直に伝えた。相手は長い間月日をともにして来た恋人なのだ。彼を支えてやれるのは他でもない、カカシ一人なのだ。彼が恋人の為に時間を割くのが無理なのは分かっている、それならばなんでもいい、何かイルカの働きに報いてやって欲しい。 「残念だけど、それは出来ないよ」 火影服に身を包んだ男は、悪い前例を作ると言って耳を貸さなかった。 「みんなそうして来たんだから」 壁にかけている火影の傘にカカシが目をやった。かつての火影達が、側近の者を身分的に取り立てて便宜を図ったことはない。 だが、紅が仕えた過去の火影達は何もしなかったわけではない。影となり身を粉にして働く彼らに、言葉を惜しんだり、報いてやれない分、人として温かい眼を向ける事を忘れなかった。彼らの家庭の事は分からなかったが、悪い噂を聞いた事もなかった。
カカシはどうなのか。カカシは昔から自分の事はほとんど話さない男だった。それでも何となく考えている事が分かったのは、自分もくノ一ながら同時代
を生きた忍同士だったからだ。忍の世界から離れ、ブランクがある今、火影の椅子に腰掛ける男に隔たりも感じている、それが余計カカシの心を見えなくさせ
た。お互いに相手の様子を伺う。まるでポーカーゲームのようだ。
「他の誰でもない、イルカの事なのよ。考えてあげられないかしら」 火影に話しているのではないと紅が言うと、イルカがカカシに直接言うならともかく、他人が口を挟む方がどうかしていると、ひと睨みされ話を切り上げられた。 やり方を間違えたと紅は思った。自分がもっと年上で、母のように諭す事が出来たなら素直に聞き入れたかもしれないが、歳も違わない女に口出しされて、男が頭に来ない話題ではないのだろう。
不愉快さを隠そうとしないカカシは、仕事を口実に、さっさと紅を執務室から追い出した。彼女が隠しカードを持っているとも知らずに。
*
*
「ねぇ、カカシからいっそのこと離れなさいよ」
イルカを慰めるのも万策尽きた。近頃ずっとそう感じていた。
『あの人の事が本当に好きなんです』
そう言わなくなったのはいつからだろうか。ストレスから気をそらせて我慢させ続ける事が、この青年の本当の幸せと言えるのだろうか。もう最後の方法を取っても許される頃ではないだろうか、イルカが心を痛める姿を見るのは忍びなかった。
「相手にここまで尽くしてきたのに、アンタ達の関係が悪い方へしか進まないなんて、縁がなかったのと一緒よ。カカシとの長い付き合いの中で、そう考えた事はないかしら」
「紅さん…」
イルカがここへ安心して通っていたのは、自分が決して別れを勧める言葉を使わなかったからだ。同性というこだわりもなかった。一度きりの人生で、好きな者達が何を躊躇う事があるのかと、ずっと背中を押して来た。だが、特別な繋がりが終わる時も来る。
「決めなさい、イルカ」 ずるずると切れかけの関係が続いていた影に、イルカの辛抱があった。 「別れは辛いでしょうけど、そろそろ潮時じゃないかしら」 いつかそう言われる事を覚悟していたのか、イルカの色のない目がしっかりこちらを向いていた。 『あの人が別れてくれと言うまで、俺は絶対に自分から身を引きません、それでいいんです』
いつか、紅の前でめずらしく酔ってこぼした言葉は、イルカの覚悟のように聞こえたものだった。そのイルカを試すように時間だけが過ぎ、今日まで来た。 上忍の座を退き、娘を育てる為に母として生きる事にした紅には、イルカの気持ちが分かるような気がした。彼は一歩離れた場所から、花道を歩く事が出来るようになったカカシの事を誇らしげに見ていた。そういう愛し方も生き方もあるのだ。
だが、それは幸せな事なのだろうかと紅は思った。運命の恋だという消せない思いが、イルカを捕らえて離さない。
報われるなくとも、この恋に一生を捧げるのだ。イルカの豊かな色をした瞳がそう告げている事を、他人の紅でさえ気づき、カカシが知らなかったはずは無い。カカシの方もイルカを本気で好いていたと思う。そうでなければ、ここまで関係が続くはずも無い。
だが、忍というのは元来変化を好む生き物だ。今目に見える木ノ葉の繁栄のように、世界に合わせて自らを変えていくのを最も得意とする。そうして生き残って来た種族だ。紅もイルカもそれがよく分かっている。
誰が人の心変わりを責められるだろうか。
紅が一人娘のミライを忍にするにあたって、イルカには随分親身になって相談に乗ってもらった。忍には不向きな、優しすぎる心の持ち主の彼に対し、紅は礼として何が出来るかを考えていた。
「そうだわ、今の家を出て、落ち着くまで私達のところで暮らせばいいじゃない。ミライも喜ぶし、イルカも一人で居るより無駄な事を考えなくて済むでしょう」
紅はイルカとカカシ、二人が仲良く笑い合う姿を眺める事が好きだった。打算も何も無い結びつきに、眩しささえ覚えた。 「……ありがとう、紅さん」 顎を上げたイルカの瞳に光が灯った。 いらぬおせっかいだとしても、誰かに憎まれる事になっても、いつからだって新しい風が吹く事をイルカに教えてやりたいと思った。
next (2016.5.26) 後ほど修正します。 ハピバがこんなんでいいのかしら。 |