うまやか事(中編)


 
 
 細長い影が玄関に立っている。
「どーも、イルカさんがお世話になったそうで」

 訪問者は火影の衣を脱いだはたけカカシだった。

「あら、いらっしゃい」

 前掛けを外した紅が表に出てみると、現火影は供の者も連れず一人だった。
 カカシは通されたリビングに進み、家主に断ることなくソファーに腰掛けた。気の無い風に部屋の中を見回した後、男は口を開いた。

「俺のいない間に、あの人に盛大な壮行会を開いてあげたそうね」

 あの人とは当然イルカの事だった。

「盛大って大げさね。この部屋でやった程度だもの。アンタの班の子達も含めて、十五人もいなかったわ」
「ナルトに聞いたから知ってるよ。一応礼を言っておこうか」
「あーら、お礼を言ってるようには聞こえないけど、火影様?」
「それ、やめろよ」

 頬杖をついたカカシが紅を睨む。
 十日前にイルカを送り出す為に、紅が発起人となって、ささやかな宴を開いた。カカシがそれについて含む事があって訪ねて来たのは間違いない。

「ちゃんとアンタにも招待状は出したわよ、届いたでしょう?」
「ああ、来ましたよ。ご丁寧に猿飛紅さんの名前でね」

 言葉の端々に刺がある。

「当たり前でしょ」
「火影宛で重要度の低い書類は、後回しにされるって、まさか知らないの?」
「私が知るわけないじゃない」

 どういう運命か、火影としての外遊行事が入っていたカカシは、例え壮行会の知らせを貰ったとしても、来られなかった。里へはおととい帰って来たばか りだという。紅はギリギリであったかもしれないが、招待状をこの度の外遊の前に、執務室に届くように出した。忙しいスケジュールを前にした火影個人宛、差 出人猿飛紅の封書は、到着の確認も、開封も見送られたという事らしい。それはそっちの事情で、紅は責められる謂れは無いと思った。

「私からの手紙を後回しにしたですって?」
 はぁ、と大げさにため息を吐いてみせた。

「気が利かないのね、今の秘書さんは。この里一番の美人くノ一だった人間の事をご存じないのかしら」
 化粧っ気の無い顔をつるりとなでて、紅はカカシを見た。ひと度その気で視線をやれば、驚く程艶めいた女が現れる。豊かな黒髪に白い肌と赤い瞳。生まれながらの華やかな容姿は、幼い頃からくノ一として活躍した紅の一つの武器だった。

「それとも六代目は、余計なくらい気が利く人間に囲まれてるのかしら。お気の毒さまだこと」

 わざと届けなかったのではないのかと、暗に言ってみる。知った時には、すべては終わっていた。カカシにとってイルカの出立など、寝耳に水だったのだ。

「紅も酷い事するね。せめてあの招待状がイルカ先生の名前で来てたら、すぐにでも俺に連絡があったはずなのに」

 恨めしそうな目が紅に向けられた。

「そうかしら、火影様宛のただのお友達からの手紙なんて、美人が差出人より重要度が低いと判断されるんじゃないの」

 それを聞いたカカシの目にいら立ちがにじんだ。

「言っとくけど、俺とイルカ先生の事を知らないような抜けた人間を、俺が側に置く訳無い。お前、俺とイルカ先生の仲を引き裂いて面白いか」
「あら、言うじゃない」

 カカシとのこんなやり取りを見越していたように、紅は言葉を返した。

「そっちこそ、八つ当たりだわ。イルカはこの事を前から決めてたのよ、アンタなら、あの子から直接聞く機会がいくらでもあったでしょう」

 そう聞いたカカシがそれと分かるぐらい息を詰めた。疲れもあるのか、いつもよりいっそう白い顔に血を上らせているのを見て、紅は顔をしかめた。

「ねぇ、娘が帰ってくる前に、家事を片付けたいのよ。文句を言いに来たんならお門違いよ、帰って」
「家事……」
「はっきり言って、迷惑よ」

 邪険にされ、カカシが目を丸くする。紅も火影に対する自分の態度をどうかと思ったが、今日は一人の古い友として話しをしているつもりだった。

「忙しいんでしょう、油売ってないで仕事に戻りなさいよ。ここにイルカはいないんだから」

 何か言いたい事があってここへきたはずなのに、核心を突いてこないカカシに対し、紅はいい加減焦れた。言葉通り、途中にしていた掃除を再開させるため、紅は腰を上げた。

「……紅は、いいお母さんしてるんだね。忍を辞めた事、後悔してないの」
「してないわよ」

 忍を辞めても暮らしは成り立つし、体力で男に劣るくノ一故に、早い時期から忍家業を仕事として割り切って来た。しかし、娘は紅にとって生き甲斐だ。巣立つ日が来ても、それはきっと変らない。
紅には自分の中に順位があって、それに従っただけだが、忍を辞めた事を一大事のように思う人間も多い。

「即答だねぇ」

 語尾を長引かせるのんびりとした男の口調が今更のように耳につく。女だけの暮らしに慣れてしまった紅には、大きな図体の男のいじけた様が、どうしようもないものに感じられた。

「あのねカカシ、悩みがあるならガイに聞いてもらえば?」
 水を向けてみたがカカシは、余計ぼんやりとした目をしてみせた。

「……あいつは駄目だ、こんな事を話しても無駄に悩ませるだけだから」

 だから、ここで管を巻いているのだということか。長年のライバルである二人は、正反対の人間のように見えて、馬鹿みたいに一途であるという点で、どこか通ずるものがある。カカシ自体、ガイも友に同情し苦悩すると思っているのだ。
 この場に及んで男同士の友情かと、紅はこめかみを押さえた。ふと上忍師時代、夢物語を平気で口にする男ばかりの輪に入って、一人でいら立ちを募らせた日々を思い出し、心の中で苦笑した。

「どうぞ御心配なく、私はガイと違って、アンタを慰めたりしないわよ」
「結構だね、誰の慰めもいらないよ」

 カカシのなげやりな口調に、紅も冷ややかな視線を返した。

「……俺達の仲を喜ぶ人間なんてゼロなんだから」

 はっとして、紅はカカシの顔をまじまじと見た。

「勘違いしないでよ、私はアンタ達の事上手く行けばいいと、……」
「当人である俺がこの関係を呪ってるんだから、どうやってもゼロにしかならないでしょ」

 ゆっくりと吐き出された低い声。言葉にしたカカシ本人が傷ついた顔をしているのに、紅はどきりとした。きっとカカシが人前で口にしたのは、今日が初めてなのだ。
 アスマと過ごした時間は短かった。男という生き物が、女とは違う面倒な一面を持っている事を、久しぶりに思い出させてもらった。弱みを見せたり負の 感情を表現する事が苦手、それは弱い人間がする事だと彼らは思っているから。こんなどうしようもない事を長い間一人で胸の中で温めていたとしたら、上手く いく事もいかなくなる。

「あのね、いくら頭がいいか知らないけど、理性でモノ言うのはやめてよ!生きた人間が
相手よ!何がイルカとの事がゼロよ、今更くだらない事言わないでよ!」

 やっとカカシの口からイルカとの関係について語られだしたというのに、紅はつい感情のままに言い返した。

「俺が全部イルカ先生の邪魔をしたんだもの。あの人の人生を台無しにしたって。紅にはこんな気持ち分かりっこない!」

 そう言うとぐっと口を引き結んで、カカシは俯いた。紅は頭を抱えたくなった。やっと気持ちを白状したかと思うと、まるで頑是無い子供のようで、手に 負えない。カカシがイルカを未だに先生と呼ぶのも、その気持ちの現れと言うのだろうか。彼からアカデミーの職を取り上げ、イルカの未来を閉ざした事を自分 のせいにして。ずっと一人でそう思い込んでいたというのか。
 
 イルカの気持ちを何一つ知らずにいた男が目の前にいる。イルカも同じ。二人は違っているようで、やはりよく似ている。手を伸ばせば、触れられる場所にいるのに、己の感情を押し殺し、その挙げ句、こうも馬鹿げた事をしでかす。

「二人の仲が上手く行かなくなった理由を、イルカから聞いたわよ。なんて言ったと思う?」

 カカシが視線だけをよこした。

「何者にもなれなかった自分の事を、アンタが疎んでるからだって」

 その言葉がもたらす言いようの無い痛みに、カカシは目をつむった。

「イルカに、カカシがそんな風に思うわけないじゃないって言ったけど、あの子の言う通りだったかもしれないわね」

 自分はカカシに不釣り合いだと言った。仕事は誇りを持ってやってきた、だが、忍としての自分は誇れるものがないとイルカは言った。こんな事を言ったら、三代目に怒られますね。そう言って、最後にはイルカは舌を出しておどけてみせた。

「本当はそんな事を、他人である私相手に、イルカは口が割けても言いたく無かったでしょうね」

 性格の不一致でも、カカシの不実な所業でもなく、それを理由にした事がショックだった。 

「あの子だって男だもの、追い込まれてるのが分かってたのに、言わせた自分が許せないわ」

 カカシは紅の言葉を居たたまれぬ思いで聞いた。
 イルカはアカデミーで忍の卵を指導し、里を支える重要な担い手だった。彼の手で育てられた者たち、コツコツと積み上げるような彼の頑張りを知る人間は、イルカを里の頼もしい仲間だと思っている。紅もカカシもよく分かっている。
 アスマが里の宝と呼んだ子供達を育てるのは、やりがいのある仕事だ。上忍師となって、イルカの卒業させた生徒を預かった紅もカカシも、それはよく分かっている。
 だが、肝心な忍としての能力の限界を知るイルカは、何を持って火影の横に立つ事を許されるのか、ずっと自問自答していたのだ。火影の横に、無冠の忍が誰の許しを得て立てるというのだろう。
 忍に生まれた者なら誰しも、その技をもって人の記憶に残るような手柄を立てたいという望みがある。誰にも一目置かれるような、忍働きをしてみたいと 思う。六代目の治世となっても、階級による待遇の差があるのは事実だ。上の階級をめざしたくとも、忍の資質は生まれ持った才能に左右され、本人の努力だけ ではどうしても超えられない高い壁がある。自分の力量を正しく知る事は、忍に不可欠な事だが、同じ時代を生きて来たカカシはもちろん、紅にも、イルカの胸 に潜む哀しみが、判らないはずがなかった。
 カカシは、イルカの言葉を聞かされて、彼がそんな風に自分を思っている事に、違うと叫びたかった。階級や手柄でイルカを疎んじた事は、一度も無いの だ。表舞台に立たなくとも、イルカのして来た事の大きさは、数えられるものではない。それを誰よりも側にいて感じていたのだ。
 だが振り返ってみれば、イルカをそんな酷い勘違いをさせるほど遠ざけたのもカカシだった。辛抱強いはずの彼の胸に刺さった小さな刺を、耐えられぬ程大きくしたは自分だった。
 立ち上がったカカシが、再びソファーに座り込む音が部屋に響いた。
 
 
**
 
 
 どれだけたった頃か、ずっと窓の外を見ていた紅の耳にカカシの声が届いた。

「……お願いしたいことがあるんだけど……」
「何かしら」

 紅もそれなりに歳をとり、アスマやガイのように友達の相談に気長に付き合える部分が僅かだが自分にも出て来たように思う。

「イルカさんがどこにいるのか教えて」

 カカシは憑き物が落ちたような顔をしていた。

「そっちで調べはついてるんじゃないの?」
 紅は意外とでも言うように驚いた顔をした。執務室に出入りする取り巻きの人間がどうであれ、六代目に仕える優秀な暗部なら、有る程度の事柄を把握し ているはずだ。たとえイルカに肩書きがなかろうが、里においてカカシに対して影響力がある人物が誰なのか、彼らは一番に分かっているに違いない。

「聞いてない……。あの人の事は俺自身で調べなきゃ、意味がないでショ」

 紅が躊躇いがちに顎に手を当てて、何かを考えるようなしぐさをした。

「紅にも、悪い事したね」

 カカシがそう言って居住まいを正すのを見て、紅は慌てて肩をすぼめた。カカシには紅が出し惜しみしているように映ったようだ。

「やめてよ、私が意地悪してるみたいじゃない。言ったところで、簡単に会える訳じゃないし」
「……どういうこと?」
「…あー、だって、それは」

 忍を辞めた数年のブランクで、紅にも油断が生まれていた。身勝手な判断でイルカが言わなかった事を教えていいのだろうか。その迷いが紅の視線を、写真立ての中にいるアスマに向けさせた。それにカカシが反応した。

「火ノ寺にいるの?」
「……ええ、よく分かったわね」

 勘のいいカカシが、これだけの情報ですべて気付いたらしい。アスマには、火ノ寺に浅からぬ縁があった。

「居場所が分かってるのに、先生に会えないなんておかしいよね。まさか……」

 カカシは傍目からもわかるくらい身震いをした。
 火ノ寺は忍寺として五大国にも広く知られた寺だった。また忍僧になる為の修行が厳しい事で有名だった。生半な忍では忍僧の修行について行く事はでき ない。一度行に入った者は、火ノ寺に伝わる特別なチャクラと術を身につけるまで里に降りてくる事はなく、その間、数年から長い者はその何倍もの時間をかけ るのだった。

「嘘でしょ、だってあの人、一体いくつだと思って……」
 カカシは震える手を額に当てた。
 アスマは一時期木ノ葉を飛び出して、大名を守る守護忍と呼ばれる組織に居た。守護忍十二士としてアスマと共に数えられた火ノ寺の忍僧は彼の親友だった。その古い縁を辿り、この度イルカのたっての願いで今回の事が決まったのである。

「どうして……」
 忍僧は奉仕活動の一環として働くのに対し、報酬を得る為に力を行使する普通の忍とは、その点で一線を画す。火ノ寺ともなれば、人を選ぶ。

「どうしてって、アカデミーの教師としての期間を僧籍にあったと判断されたんじゃないかしら」
「普通の寺じゃないんだぞ……」
「そうかもしれないけど、真面目がとりえのあのコの推薦状なんて、どこからも出してもらえそうだし」

 淡々と答える紅に対し、カカシは狼狽していた。この話が示すのは、イルカがただ里を離れたという意味ではないからだ。
 火ノ寺におけるあまりに過酷な修行の中で、命を落とす者さえいる。なぜなら、最初の年から僅かな食料と睡眠のみで、日々忍の足でもきつい四十里を走 破する行を年間三百日行う。その間、例え怪我や病気になろうと、人の手を借りる事は許されておらず、文字通り命がけの修行となっている。さらに言えば、修 行を治め忍僧となったものが、里に戻ってくる事は少なかった。
 
「今更何を考えてるんだ、よりによって……!」
「イルカなら平気じゃないの」

 怒りのため顔を赤くする昔なじみを眺めながら、紅は腕組みをしている。

「簡単に言うな!紅こそどうしてイルカ先生を、十年も二十年も帰って来れないような場所へ行かせるんだ、友達じゃなかったのか!」
「あんまりカッカしないで頂戴、近所迷惑になるわ。イルカが行きたいって言うんだもの、私が反対出来るわけないじゃない」
「おまえそれでも……!」
「そういうアンタは、イルカの何よ」

 思わず紅に掴み掛かろうとした両手をカカシはテーブルに突いた。紅が見下ろす背中が激しく上下している。そして、写輪眼があった頃のように、傷むはずのない左目にぎゅっと片手をあてて、カカシは俯いた。

「どうして、こんな馬鹿なことに……。俺を見返さなくたって、イルカさんがどれほどすごい人か分かってるのに。俺に愛想が尽いたんなら、もっといくらでも他に方法があるでしょう」

 ここにはいないイルカに向けた言葉を、カカシは口にした。
 

「あら、愛想が尽きたって言われたの?」

 紅の視線が、カカシにじっとそそがれた。
 別れましょう、イルカの口からそんな悲しい言葉を聞きたくないばかりに、この何年も、カカシは彼の家にまともに帰らなくなった。それでも、どうしても会いたくなって耐えられなくなった時は、話しも出来ない程に酒に酔ってから彼の元へ行った。
 火影となり、がむしゃらに働いた最初の数年はよかった。里が落ち着きを取り戻しはじめた頃から、心を冷たい水で満たされるような考えに取り憑かれる ようになった。火影として、里人の幸せを守りながら、自分の隣に居るイルカの幸せはどこにあるのか。イルカの未来や、天職だった仕事まで奪い、カカシは火 影になった。周囲の人間に言われたように、少なくとも六代目の候補となったあの時に、どうして別れてやらなかったのか。いや、イルカが人生を取り戻すに は、今日明日にでもまだ間に合うかもしれない。俺という呪縛からイルカを自由にしてやるのだ。
 だけど夜毎どんなに決心しても、彼から離れる事が出来ない己がいて、カカシは忍び寄る破綻の日を恐れながら、今日まで過ごして来たのだ。唯一の人の事を考えたく無くて、仕事に逃げた、それが卑怯だと言う事も重々承知で。

「だから、あの人は出て行ったんでしょ……」
「呆れるわね。イルカはそんなコかしら」

 表情の抜け落ちたカカシの顔が紅を仰ぎ見た。

「無理して離れでもしなけりゃ、アンタの事が忘れられないからじゃない」

 チチチ。
 窓の外に、火影を探索するための式鳥が飛び回っているのが見えた。緊急の知らせは持っていないようだが、火影の不在に心配性の誰かが寄越したのだろ う。カカシはイルカの事で頭が一杯の様子で、式鳥の存在に全く気付いていない。巷では出来すぎたと火影と言われるカカシのその姿に、紅は思わず微笑んだ。
 カカシは真剣な目をしていた。

「イルカさんは……」
「そのくらいアンタが好きだったのよ」
 
 
 カカシが慌てて出て行った玄関扉の向こうに、ミライがアスマによく似たドングリのようなクリっとした丸い目を血走らせて立っていた。先ほどの「好きだ」という部分を聞き取ったらしい耳のいい娘は、母の顔を心配そうに見ている。妙な誤解をしているのだ。
 ただいまも言わず突っ立っているミライに、紅はおいでおいでをして、ふざけて抱きついた。小さな体は少しよろけたが、髪をまさぐる手から逃げようとはしない。それが嬉しかった。
「おかえり、今日も修行つけてあげるわよ。その前に、甘栗甘で腹ごしらえしようか」
「うん」
 紅はアスマに似た可愛い娘に笑いかけた。


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(2016.7.1)

後ほど修正します。





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